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つながりの強いひと
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伊予親王
平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。 |
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藤原種継
親 父
奈良時代末期の公卿。藤原式家の祖、参議・宇合の孫。無位・藤原清成の長男。官位は正三位・中納言、贈正一位・太政大臣。 |
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藤原冬嗣
平安時代の公卿・歌人。右大臣藤原内麻呂の子。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 |
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嵯峨天皇
日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日))。諱は神野(かみの)。 |
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伊賀局
三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞とな... |
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平城天皇
平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日)-弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(... |
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藤原薬子
藤原薬子(ふじわらのくすこ、生年不詳-大同5年9月12日(810年10月17日))は平安時代初期の女官。式家の藤原種継の子。中納言藤原縄主の妻で三男二女の母。... |
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藤原吉子
奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。 |
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早良親王
奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(... |
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桓武天皇
日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日))。 |
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藤原真夏
奈良時代から平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原内麻呂の長男。官位は従三位・参議。 |
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坂上田村麻呂
平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。 |
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藤原雄友
奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家、右大臣・藤原是公の次男。官位は正三位・大納言。 |
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藤原百川
奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。 |
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藤原仲麻呂
奈良時代の公卿。名は仲麿または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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藤原京
飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある... |
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藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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高岳親王
平安時代初期の皇族・僧侶。法名は真如。平城天皇の第三皇子。甥に在原業平がいる。品位は四品。 |
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プロフィール
藤原仲成(ふじわらのなかなり、宝亀5年(774年)-大同5年9月11日(810年10月16日))は、平安時代初期の公卿。藤原式家、中納言・ 藤原種継の長男。官位は従四位下・参議。
経歴
| 延暦4年(785年)父・種継が暗殺されたため、年少ながら従五位下に叙された。 |
| 桓武朝では出雲介・越後守・山城守・大和守と地方官や、弁官などを歴任する。 |
| この間、延暦16年(797年)従五位上、延暦17年(798年)正五位下、延暦20年(801年)従四位下と順調に昇進した。 |
| 平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けたこともあり、仲成は重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かったために人々から憎まれたという。 |
| また、大同(807年)伊予親王の変にも関与していたともされ、変後仲成は右兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列した。 |
| 同年に平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策して二所朝廷の対立を招く。 |
| 大同5年(810年)6月観察使制度の廃止により参議となる。 |
| しかし、9月6日の平城上皇による平城京への遷都命令により平城上皇・嵯峨天皇の対立が激化すると、9月10日嵯峨天皇に先手を打たれて捕縛、右兵衛府に監禁の上、佐渡権守に左遷され、翌日紀清成・住吉豊継の手により射殺された。 |
| 仲成の射殺を最後として以後、平安末期の保元の乱まで中央では死罪は行われなかったと言われているが、仲成に対して行われた「射殺」という処刑方法は養老律にある斬・絞の方法とは異なり、かつ一旦正規の左遷手続が下された相手に行われていることから、法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている上横手雅敬による。 |
人物
| 欲が深い性格で、酒の勢いで行動することがあった。 |
| 親族の序列を無視し、諫止にも憚ることがなかった。 |
| 妹の薬子が朝廷で自分の思うままに行動するようになると、その威を借りてますます傲り高ぶるようになり、王族や高徳者が多く陵辱を受けた。 |
| 妻(笠江人の娘)の叔母が非常に容貌が優れていたことから仲成は好意を寄せるが、嫌われていうことをきかなかったため、力ずくで意に沿わせようとした。 |
| そのため、叔母は佐味親王の許へ逃げ込むが、仲成は親王とその母(多治比真宗)が住んでいた家にあがりこみ、叔母を見つけると暴言を吐き道徳に反する行動に出た。 |
| 仲成が殺害されるに及び、人々は「自らの行いが招いたことだ」と思ったという。 |
| 『日本後紀』大同5年9月11日条。 |
系譜
| 父:藤原種継。 |
| 母:粟田道麻呂の娘。 |
| 妻:笠江人の娘。 |
| 男子:藤原藤主。 |
参考文献
| 森田悌『日本後紀(中)』講談社学術文庫、2006年。 |
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