| 長徳2年(996年)は伊周兄弟にとって運命的な年であるのみならず、後期摂関時代史上、重要な一節といえる。 |
| いわゆる長徳の変は、太政大臣恒徳公藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女目当てと誤解した伊周が弟隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するとされている『栄花物語』巻第四,みはてぬゆめ。 |
| なお、『小右記』によれば、法皇の従者の中に2名の死者が出たとされる。 |
| 当時、貴族間のこうした事件は決して珍しい事ではなかった関口力は時期的に御屠蘇気分の中で発生した揉め事が拡大解釈されたと説く(関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年)P234-235)。 |
| 倉本一宏は事実として確認できるのは、隆家の従者と法皇の従者の揉め事が為光邸前で起きたことに過ぎないとして女性問題原因説に懐疑的な立場を取る(倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書、2003年)P68)。 |
| この年の『小右記』は正月16日から2月5日までの間に大きな脱落があり、わずかに『三条西家重書古文書一』所収の『九条殿記裏書』に引かれる『野抄記』逸文から、「正月十六日、右府消息云、花山法皇・内大臣・中納言隆家相二遇故一条太政大臣家一、有二闘乱之事一、御童子二人殺害、取レ首持去云々」の一文が知られるのみである。 |
| が、退位したとは言え天皇に向けて矢を射掛けたという前代未聞の事件が、政治問題にならない訳が無かった。 |
| 正月16日に起きた当事件への道長の反応は素早かった(道長が早い段階から事態を把握していたのは、検非違使別当であった藤原実資から上がるべき事件の報告が道長から実資に手紙伝えられていることからでも分かる)。 |
| 同25日の県召除目で伊周の円座を撤することを命じ、一件が世上の噂に上るのを待って上意を動かした。 |
| 翌月2月5日には一条天皇が検非違使別当であった藤原実資に伊周邸、紀伊前司菅原董宣(伊周の家司)宅、及び右兵衛尉源致光(伊周の郎等)宅の捜索を許可したこの時の勅命は厳しいもので、五位以上の者の邸宅でも勅許を待たずに捜索を先行させるようにとのことであった。 |
| 「内府(伊周)は私兵を多く蓄えている」との噂があり、また実際に董宣宅から兵士八人・弓矢二具が見つかり、致光宅から七、八人の兵士が逃げ去ったといい、世の中は騒然とした。 |
| 「この一件は伊周個人の問題にとどまらず、天皇に藤原家全体を弾圧する口実を与える可能性さえあった」という見方もある。 |
| 以後この事件の捜査は天皇の意向が優先され、道長らの決定が後追いするという展開で進められることになる「内覧の道長でさえ斉信の報告で初めて罪名勘申が行われる事実を知ったとされる」という意見もあるが、『小右記』2月11日条の記事を読む限り、陣定の座において斉信が蔵人頭として道長へ正式な勅旨を伝達したのは確かだが、内覧の道長が果たしてこの時はじめて罪名勘申のことを知ったかどうかについては、『小右記』の行文からは判明できない。 |
| 正月16日の事件の詳細がいち早く道長から検非違使別当の実資へ伝えられたこと一つを取ってみても、「道長は勅命を承るのみであった」という見方について疑う余地は十分にあり、判断を保留するべきである。 |
| 第一、花山法皇が「『この事散らさじ、後代の恥なり』と忍ばせたまひ」(『栄花物語』)、あくまで押し隠そうと考えたことが、如何様にしてこれほどの大事件にまで発展したかを考えるべきである。 |
| 伊周・隆家の罪名勘申が決定された時、「満座傾嗟(居並ぶ人すべてが、驚きかつ嘆いた)」の状態であったことからも、公卿層には二人への厳罰に対する驚きと同情がかなりあったことがうかがえ、翻していえば、それは事件の経過に不可解な点があったことを意味する。 |
| 同月24日に至り、花山法皇を射奉る不敬、東三条院呪詛、大元帥法を私に行うこと三カ条の罪状により、除目が行われ、内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟、外戚高階家、また中宮の乳母子源方理らも左遷されたり殿上の御簡を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。 |
| 折りしも懐妊中の中宮定子は先月始めから里第二条北宮に退出しており、左衛門権佐・惟宗允亮は御在所の西の対に在る伊周に配流の宣命を伝えたが、伊周は重病を称し、出立を拒んだ。 |
| 彼は妹定子と相携えて離れず、度重なる勅命にも抗い、数日間膠着状態が続いたが、5月1日早朝になって、朝廷は宣旨を降し中宮御所の捜索を聴許。 |
| 検非違使率いる武士どもが戸を壊し御所に乱入した後、中宮は屈辱に耐えられず自ら落飾、一同の悲泣の声は多数の見物人が聞くに忍びなかったという。 |
| その時捕まえられたのは隆家だけで、邸内に伊周の身柄は無かったが、事件の過程を詳らかに記す『栄花物語』「浦々の別れ」巻は、伊周が春日大社や木幡にある父の墓に参詣し、3日後僧形で帰ったと伝える。 |
| 彼は数日後、配所に向けて出発した(5月15日伊周を播磨に、隆家を但馬に留める勅が発せられた)。 |
| 伊周の母貴子は出立の車に取り付いて同行を嘆願したが許されず、やがて病の床に就くことになる。 |
| 十月初め、伊周は病む母を思って密かに入京し、中宮御所に匿ったが、平孝義らの密告によって同月11日には捕えられ、改めて大宰府へ護送された(当年の暮れに到着)。 |
| 同年12月、定子は失意と悲嘆の中、一条天皇第一皇女脩子内親王を出産し、帝が定子入内を強く望む一方、東三条女院の病気も一向に快方に向かわず、朝廷は遂に長徳3年(997年)4月5日、女院御悩による大赦に託けて大宰権帥伊周・出雲権守隆家兄弟の罪科を赦し、太政官符を以って召還することに決めた。 |
| その後、長保元年(999年)11月7日、定子は第一皇子敦康親王を出産し、伊周は一家再興の望みをかけて狂喜したが、奇しくも同じ日、入内後6日目の道長長女彰子に女御の宣旨が下った。 |
| 道長は蔵人頭藤原行成をして女院・一条天皇に働きかけ、翌長保2年2月25日、彰子を立后させて中宮と称し(定子は皇后に横滑り)、遂に前代未聞の一帝二后が現出したのである。 |
| 心労に苛まれた定子はその年の暮れ、12月15日夜に第二皇女媄子内親王を出産し、後産が降りぬままに翌日未明に崩御。 |
| その時、御産に奉仕していた伊周は座産の姿勢のままで死んだ妹の亡骸を抱き、声も惜しまず慟哭したという。 |
| 皇后葬送の日、大雪の中を歩行して従った伊周が詠んだ「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき」という歌が『続古今和歌集』に残る。 |