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藤原良房
平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に藤原基経。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公、国公は美濃公。皇... |
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恒貞親王
平安時代前期の皇族。淳和天皇の第二皇子。仁明天皇の皇太子(のち廃される)。品位は三品。異称は亭子親王。法名は恒寂。 |
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淳和天皇
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平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴(おおとも)。 |
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阿保親王
平安時代前期の皇族。平城天皇の第一皇子。官位は三品・弾正尹、贈一品。 |
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藤原百川
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奈良時代の公卿。初名は雄田麻呂。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の八男。官位は従三位・参議、贈正一位・太政大臣。 |
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藤原良近
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
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橘逸勢
平安時代の書家・官人。橘奈良麻呂の子で右中弁を務めた橘入居の末子。嵯峨天皇皇后・橘嘉智子、右大臣橘氏公はいとこにあたる。官位は従五位下・但馬権守、... |
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藤原真
ヤクルト、日本ハムに所属したプロ野球選手。ポジションは投手。 |
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藤原冬嗣
平安時代の公卿・歌人。右大臣藤原内麻呂の子。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 |
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藤原豊成
奈良時代の貴族。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の長男。官位は従一位・右大臣。別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど)。 |
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藤原浜成
藤原浜成(ふじわらのはまなり、神亀元年(724年)-延暦9年2月18日(790年3月12日))は奈良時代の貴族・歌人。藤原京家、参議・藤原麻呂の子。官位は従三位... |
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清原夏野
平安時代初期の貴族、政治家。舎人親王の孫である小倉王の五男。初名は繁野王、のち臣籍降下し清原真人姓を賜与された。官位は従二位・右大臣、贈正二位。平... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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藤原保則
平安時代初期の貴族。藤原南家、中納言・藤原乙叡の孫。左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ... |
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菅原道真
天神 菅原道真 0.目次 本レポートでは以下の通りに調査内容を報告することをここに記す。 1.菅原道真という人物。 2.天神、道真。そして学問の神、道真。 ... |
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藤原基経
平安時代前期の公卿。藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公... |
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藤原忠平
平安時代の公卿。藤原基経の四男。母は人康親王女。兄弟に時平、仲平など。子に実頼、師輔など。小一条太政大臣と号す。漢風諡号は貞信公、国公は信濃公。兄... |
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橘嘉智子
第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。別名・檀林皇后(... |
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藤原師尹
藤原師尹(ふじわらのもろただ、延喜20年6月2日(920年7月24日)-安和2年10月15日(969年12月1日))は平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤... |
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藤原良継
藤原良継(ふじわらのよしつぐ、霊亀2年(716年)-宝亀8年9月18日(777年10月27日))は奈良時代の貴族。藤原式家の祖である、参議・藤原宇合の次男。初名は... |
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プロフィール
藤原吉野(ふじわらのよしの、延暦5年(786年)-承和13年8月12日(846年9月10日))は、平安時代初期の貴族。藤原式家、参議・藤原綱継の長男。官位は正三位・中納言。
経歴
| 式家出身の母(藤原百川の娘・旅子)を持つ淳和天皇とは同年齢で親しく(天皇の乳母子とする説もある)、その生涯を天皇の為に捧げる事になる。 |
| 弘仁10年(819年)従五位下・駿河守に叙任、国司として治績をあげて頭角を現す。 |
| 弘仁14年(823年)淳和天皇の即位後は都に呼び戻されて、側近として左少将・左少弁を歴任し、天長3年(826年)には蔵人頭となって天皇の政策を助けた。 |
| この間に天長元年(824年)従五位上、天長3年(826年)正五位下、天長4年(827年)には従四位下に昇叙と、急速に昇進を果たす。 |
| ついに天長5年(828年)には参議として公卿に列し、天長9年(832年)には従三位・権中納言に叙任し、右近衛大将・春宮大夫を兼任する。 |
| 淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲ると、正三位・中納言に叙任されるが、専ら淳和上皇の傍につき従った。 |
| 承和7年(840年)に淳和上皇が危篤となり、兄の嵯峨上皇や仁明天皇に遠慮して「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残していないことを示して欲しい」と遺言すると、吉野は必死に押し留めようとしたが、間もなく上皇が崩御すると、吉野は泣く泣くその指示を実行したという。 |
| この時点で、政治の第一線から退き、上皇の息子である皇太子・恒貞親王の為に尽くすことを考えるが、仁明天皇の慰留を受けて中納言の地位に留まっている。 |
| だが、承和9年(842年)7月、突如恒貞親王や吉野らは謀反の疑いをかけられてしまう。 |
| 親王は廃太子とされ、吉野は大宰員外帥に左遷させられてしまう(承和の変)。 |
| さらに3年後には山城国内にて幽閉されて失意の内に病死した。 |
人物
| 性格は寛大・柔和で包容力があり、目下の者からも進んで教えを受ける一方、師弟にも教え諭したという。 |
| 淳和天皇だけでなく多くの人達から信頼された。 |
略歴
| 弘仁4年(813年)以前主蔵正。 |
| 弘仁4年(813年)美濃少掾。 |
| 弘仁7年(816年)春宮少進(春宮は大伴親王(のち淳和天皇))。 |
| 弘仁10年(819年)1月7日:従五位下、1月10日:駿河守。 |
| 弘仁14年(823年)5月13日:中務少輔、9月16日:左近衛少将。 |
| 天長元年(824年)1月7日:従五位上、5月21日:左少弁。 |
| 天長3年(826年)1月21日:伊予守、2月:蔵人頭、8月13日:正五位下。 |
| 天長4年(827年)1月21日:従四位下、2月:皇后宮大夫、3月:右兵衛督『蔵人補任』。 |
| 天長5年(828年)閏3月13日:右兵衛督、5月27日:参議。 |
| 天長6年(829年)2月22日:式部大輔。 |
| 天長7年(830年)5月5日:春宮大夫(春宮は正良親王(のち仁明天皇))、8月4日:正四位下・右近衛大将。 |
| 天長9年(832年)1月11日:美作守、2月26日:伊予守、11月2日:従三位・権中納言。 |
| 天長10年(833年)3月6日:正三位、3月15日:右近衛大将辞任(淳和天皇退位による)。 |
| 承和元年(834年)2月5日:中納言。 |
| 承和7年(840年)5月8日:淳和上皇崩御。 |
| 承和9年(842年)7月23日:大宰員外帥に左遷(承和の変)。 |
| 承和12年(845年)3月25日:大宰員外帥解任・山城国へ幽閉。 |
| 承和13年(846年)8月12日:死去(61歳)。 |
系譜
| 父:藤原綱継。 |
| 母:藤原姉子(藤原蔵下麻呂の娘)。 |
| 男子:藤原近峯。 |
| 男子:藤原真峯。 |
| 男子:藤原浜主。 |
| 四男:藤原良近(823-875)。 |
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