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つながりの強いひと
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藤原秀衡
平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍。藤原基衡の嫡男。 |
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藤原清衡
父
平安時代後期の武将で奥州藤原氏の祖。 |
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藤原泰衡
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男。 |
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安倍宗任
親
平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。 |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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藤原経清
平安時代中期の陸奥国亘理郡の豪族。『尊卑分脈』によると藤原秀郷の6代後で、父は下総国住人藤原頼遠。母は平国妙の姉妹。室は安倍頼時の娘。子に奥州藤原氏... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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円仁
第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。 |
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源義家
平安時代後期の武将。河内源氏の源頼信の孫。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏など... |
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高橋富雄
東北大学名誉教授、福島県立博物館名誉館長。東北古代史研究の第一人者である。永年歴史上の謎とされて来た前九年の役の古文書に記述されている阿久利川事件... |
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藤原頼長
平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない... |
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源師時
平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏、左大臣・源俊房の次男。官位は正三位・権中納言。 |
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安倍頼時
安倍頼時(あべのよりとき)は平安時代の武将。陸奥国奥六郡を治めた俘囚長。陸奥大掾(陸奥権守とする説がある)・安倍忠良の子。孫に奥州藤原氏の初代藤原... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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源頼義
平安時代中期の武将。河内源氏初代・源頼信の嫡男で河内源氏二代目。 |
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礎石
礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。転じて、ものごとの土台や基礎のことをさす。礎石を用いない場合、柱... |
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藤原国衡
平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏3代当主藤原秀衡の長男。母は側室で蝦夷の娘であったとも言われる。異母弟に泰衡、忠衡ほか。妻は... |
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藤原忠衡
平安時代末期、鎌倉時代末期の奥州藤原氏の武将。藤原秀衡の三男。藤原泰衡の異母弟。庶長兄には藤原国衡がいる。通称、泉三郎、泉冠者。秀衡の館柳之御所に... |
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松尾芭蕉
江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(... |
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プロフィール
藤原基衡(ふじわらのもとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第2代当主。父は 藤原清衡。
生涯
| 源師時の日記『長秋記』大治5年(1130年)6月8日の条に、大治3年(1128年)の清衡の死後、兄である「小館」惟常ら兄弟との争乱が記録されている。 |
| 基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常ら父子共々首を切ったという。 |
| 基衡はこの合戦に勝ち、奥州藤原氏の当主となる。 |
| なお、清衡の元妻が清衡死後に上洛して都の検非違使源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。 |
| この女性は基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測される。 |
| 康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は家人である地頭大庄司季治(佐藤季治、または季春)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。 |
| 激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。 |
| 季治は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。 |
| 基衡は師綱に砂金一万両献上し、季治の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。 |
| 基衡はこれに懲り、翌康治2年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣藤原基成と結び、その娘を嫡子秀衡に嫁がせた。 |
| 基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。 |
| また、左大臣藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。 |
| この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平3年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。 |
| これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。 |
| 久安6年(1150年)から久寿3年(1156年)にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。 |
| 運慶に関する記述を削除しました。 |
| 詳細はノートで-->また、基衡の妻は観自在王院を建立している。 |
金色堂に眠る基衡
| 基衡の遺骸はミイラとなって父清衡、子秀衡と共に中尊寺金色堂に納められている。 |
| 1950年(昭和25年)の遺体学術調査について1994年7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、基衡は身長164cm、いかり肩で肥満体質、腹がよく突き出していたと思われる。 |
| 鼻筋が通り高い鼻、顔は長く顎の張った大きな顔。 |
| 重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、美食の結果かと思われる。 |
| レントゲン検査によると、死因は骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエスかと想定される。 |
| 死亡年齢は60-70歳くらい、あるいは70歳前後。 |
| 右手首に数珠玉の跡が二列並んでいた。 |
| 遺体に副えられた副葬品は、木製の杖、木製・ガラス製の念珠、金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦、金銅鈴など、京都のそれに勝るとも劣らない当代一流の工芸品であった。 |
関連項目
| 今東光『蒼き蝦夷の血』(新人物往来社/徳間文庫)。 |
| category:平安時代の武士。 |
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1142年
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藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は... |
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1143年
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師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣藤原... |
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