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つながりの強いひと
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大日本帝国陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(37期)。第3代陸上幕僚長。 |
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横川省三(よこかわしょうぞう、元治2年4月4日(1865年4月28日)-明治37年(1904年)4月21日)は明治期の新聞記者。南部盛岡藩の出身。初名は勇治。勇次のペ... |
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プロフィール
藤原岩市(ふじわらいわいち、1908年3月1日‐1986年2月24日)は、日本の兵庫県出身の陸軍軍人、陸上自衛官。F機関を成功させた人物として有名。
経歴
| 柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となった。 |
| 天津駐屯歩兵隊付、豊橋陸軍教導学校付などを経て、1938年5月、陸軍大学校(50期)を卒業。 |
| 歩兵第37連隊中隊長、第21軍参謀、留守第1師団司令部付を歴任。 |
戦中
| 藤原はもともとは情報畑の人間ではなかった。 |
| 1939年、服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部入りし、作戦参謀となる予定だったが、当時藤原がチフスを患っていたことで、そのころは皇族も在籍していた作戦課ではまずいということになった。 |
| それで謀略・宣伝を担当する別の課(第8課)に配属されることになったという。 |
| 陸軍中野学校の教官も兼務しながら、任務の性格について勉強していたが、南方作戦の実施が参謀本部の中で本決まりになってくると、8課では現地における宣伝戦について調査企画することを藤原に命じ、藤原は嘱託の民間人十数名を集めて調査研究を開始した。 |
| 日本における現地情報の不足に直面した藤原は、自ら偽装身分で現地に入って情報と資料を集めた。 |
| また、民間の作家、記者、芸術家などを進軍先に連れて行って思想戦に資することを提案し、認められた。 |
| (いわゆる報道班員である)。 |
| 1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。 |
| 若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。 |
| その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。 |
| その一環としてマレーシア出身の日本人である谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。 |
| 谷は死後、「マレーのハリマオ」として日本で英雄視されることになる。 |
| F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。 |
| 当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。 |
| 藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。 |
| この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:TheFarrerParkaddress)。 |
| インド国民軍は最終的に5万人規模の大集団となった。 |
| 期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。 |
| 岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった(それは藤原も同じだったが)。 |
| 日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。 |
| 彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、藤原は解任されて怒るモハン・シンを宥めなければならなかった。 |
| 両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は、後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔している。 |
| スマトラ島での同種の活動の後、藤原はビルマ攻略軍の参謀を経て内地でも参謀業務を行っている。 |
戦後
| 終戦時、藤原は九州の病院に入院していたが、そこに偶然、チャンドラ・ボースの飛行機事故で負傷した軍人が転院してきて、彼の死亡を知った。 |
| 藤原は衝撃を受けたという。 |
| やがてGHQ経由でイギリスの出頭命令を受け、1945年11月、インドまで赴く。 |
| そこではインド国民軍に参加したインド人将校たちを反逆罪で裁く裁判が行われており、その証人として呼び出されたのだった。 |
| しかしインドでは独立を求めてインド人たちの行動が活発化しており、この裁判に抗議する十万人規模のデモが繰り広げられ、軍艦を占拠されたりするような状況で、結局この裁判はうやむやのままに打ち切りとされた。 |
| その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。 |
| 1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。 |
| その尋問はとても厳しいものだったという。 |
| 幸いにも、有罪とはされなかった。 |
| この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。 |
| 尋問官は藤原の功績をglorioussuccessと評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。 |
| 藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。 |
| 1947年6月、日本に戻った藤原は復員局の戦史部に在籍した後、陸上自衛隊に入隊した。 |
| 希望して調査学校の校長に就任し、自衛隊情報部門の育成に努める。 |
| 師団長などを歴任した後、1966年1月、依願退職。 |
| 藤原はまだ制服を脱ぐ前から東南アジア諸国について個人的に活動を行っていたが、退職して自由になると各地を訪問して現地の要人と関係を深めた。 |
| インドネシア情勢について、スカルノ失脚不可避の見通しを外務省より先に政界に伝えたといわれる。 |
| 藤原と三島由紀夫の関係について、山本舜勝は、三島のクーデター計画に藤原も関わっていたと著書で書いているが、その信憑性は不明。 |
| 藤原は田中清玄に紹介されて三島と知り合い、自衛隊各所への紹介を行ったのは事実のようである。 |
| 1971年、第9回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補するが落選した。 |
| 1980年9月、全国戦友会連合会会長に就任した。 |
著書
| 『F機関』原書房、1966年。 |
| 杉田一次との共著『スイスの国防と日本』時事通信社、1971年。 |
| 『留魂録』振学出版、1986年。 |
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1931年
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陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍... |
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服部卓四郎によって中国から呼ばれて参謀本部... |
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