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つながりの強いひと
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平将門
平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸... |
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藤原純友
平安時代の貴族。右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下・伊予掾。瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知ら... |
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平安時代中期の武将。下野大掾藤原村雄の子。藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ... |
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藤原忠平
平安時代の公卿。藤原基経の四男。母は人康親王女。兄弟に時平、仲平など。子に実頼、師輔など。小一条太政大臣と号す。漢風諡号は貞信公、国公は信濃公。兄... |
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源経基
平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。『保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王で、母は右大臣源能有の娘。皇族に籍していたとき「... |
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍である。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍で九条頼嗣(くじょうよりつぐ)とも呼ばれる。父は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経。官位は従三位... |
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藤原頼経
鎌倉幕府4代将軍である。五摂家の一つ九条家出身で、九条道家の三男。官位は正二位・権大納言。九条頼経(くじょうよりつね)とも呼ばれる。七条将軍と号す。 |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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藤原師輔
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藤原実頼
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原忠平の長男。母は宇多天皇の皇女源順子。幼名は牛養(うしかい)。小野宮殿と称す。漢風諡号は清慎公... |
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興世王
平安時代中期の皇族。出自については、桓武天皇の後裔にして伊予親王の玄孫とする説があるものの、信憑性に乏しい。承平天慶の乱の首謀者の一人。官位は従五... |
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小野好古
小野好古(おののよしふる、884年(元慶8年)-968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三... |
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橋姫
橋にまつわる日本の伝承に現れる女性・鬼女・女神である。 |
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市川亀治郎
東京都出身の俳優、歌舞伎役者。本名は喜熨斗孝彦(きのしたかひこ)。屋号は澤瀉屋、定紋は(やえおもだか)。歌舞伎名跡「市川亀治郎」の当代。所属事務所... |
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源高明
平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。一世源氏... |
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藤原顕忠
藤原顕忠(ふじわらのあきただ、昌泰元年(898年)-康保2年4月24日(965年6月1日))は平安時代の公卿。左大臣・藤原時平の次男。官位は従二位・右大臣。贈正... |
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藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
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プロフィール
藤原忠文(ふじわらのただぶみ、貞観15年(873年)-天暦元年6月26日(947年7月16日))は、平安時代の貴族。藤原式家、参議・藤原枝良の子。官位は正四位下・参議、贈正三位行・中納言。宇治民部卿とも呼ばれる。
略歴
| 内舎人・修理少進を経て延喜4年(904年)従五位下に叙せられる。 |
| のち、左馬頭・左衛門権佐・右少将等の武官や紀伊・播磨・讃岐・摂津・丹波・大和等主に畿内及びその周辺諸国の地方官を歴任し、天慶2年(939年)に参議として公卿に列す。 |
| 天慶3年(940年)関東で反乱を起した平将門を追討するため、右衛門督・征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となったが、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた。 |
| 翌天慶4年(941年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するため征西大将軍に任ぜられている。 |
| 947年(天暦元年)に薨去。 |
| 最終官位は正四位下・参議民部卿兼紀伊権守。 |
| 没後、中納言正三位を贈られている。 |
| 馬・鷹の名手であった。 |
逸話
| 忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言・藤原実頼が嘉賞に反対し、忠文は恩賞を得られなかった。 |
| 忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。 |
| その後、天暦元年(947年)6月に忠文が没すると、同年10月に実頼の娘・述子(村上天皇の女御)が、11月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。 |
| このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利神社が創建された。 |
系譜
| 父:藤原枝良。 |
| 母:息長息継の娘。 |
| 男子:藤原滋望。 |
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