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つながりの強いひと
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藤原良房
平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に藤原基経。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公、国公は美濃公。皇... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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伴善男
平安時代前期の貴族。参議・伴国道の五男。官位は正三位・大納言。伴大納言と呼ばれた。 |
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藤原冬嗣
父
平安時代の公卿・歌人。右大臣藤原内麻呂の子。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 |
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小野篁
平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。 |
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藤原美都子
母
藤原美都子(ふじわらのみつこ、天応元年(781年)-天長5年9月5日(828年10月17日))は平安時代初期の貴族女性、女官。藤原南家出身。父は藤原真作。父方の... |
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藤原順子
第54代仁明天皇女御。皇太后。藤原冬嗣の長女で母は尚侍藤原美都子。通称:五条后。 |
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藤原基経
平安時代前期の公卿。藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公... |
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藤原常行
先祖
平安時代の貴族。藤原北家、右大臣・藤原良相の長男。官位は正三位・大納言、贈従二位。西三条右大将と号す。 |
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藤原良輔
平安時代初期の公家。左大臣藤原冬嗣の四男。官位は正五位上・雅楽助。外祖父の安倍男笠は従四位下にまで昇り、かつ冬嗣と同年に没していることから、外祖父... |
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藤原長良
平安時代初期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。陽成天皇の外祖父。官位は従二位・権中納言。贈正一位・太政大臣。枇杷中納言と号した。 |
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藤原良世
藤原良世(ふじわらのよしよ、弘仁14年(823年)-昌泰3年11月18日(900年12月12日))は平安時代前期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の八男。官位は従二... |
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藤原武
藤原 武(タケル)
Takeru Fujiwara
1982年7月13日生れ
Height : 160cm
Blood type :B型
Country :群馬県
Taste :ダンス、テニス
Favorite singer :B-DASH、1... |
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在原業平
平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。三品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。また『伊勢物語』の主... |
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清原夏野
平安時代初期の貴族、政治家。舎人親王の孫である小倉王の五男。初名は繁野王、のち臣籍降下し清原真人姓を賜与された。官位は従二位・右大臣、贈正二位。平... |
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恒貞親王
平安時代前期の皇族。淳和天皇の第二皇子。仁明天皇の皇太子(のち廃される)。品位は三品。異称は亭子親王。法名は恒寂。 |
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文徳天皇
平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年4月17日(850年5月31日)-天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。 |
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藤原真作
親 母
奈良時代の貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の五男。官位は従五位上・阿波守。 |
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応天門の変
平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言... |
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閻魔王
文化財紹介 長伝寺「木造閻魔王坐像」 ・市指定有形文化財(彫刻) 平成13年 4月20日指定
・長伝寺「木造閻魔王坐像」 一躯
・ちょうでんじもくぞうえんま... |
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プロフィール
- 藤原良相とは
- 経歴
- 人物
- 逸話
- 説話
- 系譜
- 参考文献
藤原良相(ふじわらのよしみ/よしあう、弘仁4年(813年)-貞観9年10月10日(867年11月9日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、 左大臣・ 藤原冬嗣の五男。 文徳天皇の外叔父。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条大臣と号す。
経歴
| 若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。 |
| 承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて六位蔵人・右兵衛権大尉として、天皇の身近に仕える。 |
| こののち、承和5年(838年)従五位下、承和7年(840年)左近衛少将、承和8年(841年)従五位上、承和10年(843年)正五位下、承和11年(844年)蔵人頭、承和13年(846年)従四位下・左近衛中将と武官を務める傍ら順調に昇進し、嘉祥元年(848年)には参議として公卿に列した。 |
| また、承和9年(842年)の承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている。 |
| 嘉祥3年(850年)甥の皇太子・道康親王が即位(文徳天皇)すると、正四位下に叙され、新皇太子・惟仁親王の春宮大夫に任ぜられる。 |
| 左右大弁を経て、仁寿元年(851年)良相より先に参議に任官していた長兄・長良を越えて権中納言(同年叙従三位)に任ぜられると、仁寿4年(854年)権大納言・右近衛大将と急速に昇進し、857年(天安元年)太政大臣に昇進した兄良房の後を受けて右大臣・左近衛大将に就任。 |
| 天安3年(859年)正二位に至る。 |
| 貞観6年(864年)清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった。 |
| 貞観8年(866年)の応天門の変に際し、伴善男の告発を受け一旦は左大臣源信の逮捕命令を下すが、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は政治的影響力を失った。 |
| 翌貞観9年(867年)10月初めに直廬で急病となり、同月10日に死去、即日正一位を贈られた。 |
| 遺言に従って薄葬とし、一重の衾だけで棺を覆わせたという。 |
人物
| 幼少時から度量が広く傑出していた。 |
| 仏教への信仰心が篤く、臨終に際して極楽往生を信じて疑わなかった様子は隋の姚察にもなぞらえられたという。 |
| また、長い間肉食をせず粗食で通していたことから非常に痩せており、それは終生続いたという。 |
| 『日本三代実録』貞観9年(867年)10月10日条。 |
逸話
| ある時仁明天皇が薬石を煎じて不純物を取り除いたものを試しに近侍の者に見せて、まず嘗めてみてその精粗を教えよと命じた。 |
| しかし、気後れして誰も口に入れようとしなかったところ、良相は杯を取って全部飲み込んでしまった。 |
| 天皇は薬剤のことであっても君臣の義を忘れなかったとして、良相を褒めたという。 |
| 良相は仏教の典籍を学び、真言に通熟していた。 |
| 良相が30歳代の頃に妻(大江氏)が没したが、欲望を振り払い念仏に没頭し、後妻を娶ることはなかったという。 |
| 貞観年間の初頭、重要な政務に心を砕き、悪を正して乱れを救うことを志した。 |
| 当時、鷹を利用して鳥類を捕らえさせることを一切禁止して、人々が生活のために山川藪沢を利用するのを妨げないようになっていたが、これも良相の奏上によるものであったという。 |
| 一族をまとめることにも腐心し、勧学院の南側に延命院を建てて一族の学生の内で病苦があり家業がない者を養い、また、六条の邸宅を崇親院と名付けて一族の子女で自ら生計を立てられない者を養った。 |
| なお、封戸を割いて荘田に入れこれらの運営のための費用に充てたという。 |
| また、崇親院の中に小堂を建てて仏像を安置し、院に住まわせている者に毎日像を洗わせあるいは観音の名を唱えさせるなどして善根を積ませた。 |
| 文学の士を愛好し、大学で学ぶ学生の中で貧しい者がいれば綿絹を与え、冬に寒さが厳しい折には多くの服を縫って四学堂に宿直する者に遍く与えた。 |
| また、学生の内で漢詩が得意な者を召して詩を作らせ、褒美を与えることも数多くあったという。 |
説話
| 以前、良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護したことがあった。 |
| 後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという『今昔物語集』『江談抄』。 |
系譜
| 父:藤原冬嗣。 |
| 母:藤原美都子-藤原真作の娘。 |
| 同母兄:藤原長良。 |
| 同母兄:藤原良房。 |
| 同母姉:藤原順子。 |
| 妻:大江乙枝の娘。 |
| 長男:藤原常行(836-875)。 |
| 男子:藤原忠方。 |
| 長女:藤原多賀幾子(?-858)-文徳天皇女御。 |
| 女子:藤原多美子(?-886)-清和天皇女御。 |
| 女子:三松俊行室。 |
| 9人の子女があり、長男・常行は順調に出世し若くして大納言まで昇ったものの早世してしまい、その後良相の子孫からは公卿を輩出できず、『大鏡』では子孫の不振ぶり語られている『大鏡』第2巻,右大臣良相。 |
| また、直方・忠方は才行を称えられ、特に忠方は最も隷書に優れていたという。 |
| なお、同母兄の良房・長良は、入内した娘が産んだ皇子が即位したことから天皇の外祖父となった一方で、良相の二人の娘はそれぞれ文徳天皇・清和天皇の女御となったがいずれも皇子に恵まれなかった。 |
参考文献
| 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し日本三代実録上巻』戎光祥出版、2009年。 |
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