13383
13536
154329
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 藤原道兼の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
藤原兼家
親
平安時代の公卿。従一位摂政・関白・太政大臣に昇る。藤原北家流の藤原師輔の3男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』... |
|
|
藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
|
|
藤原道隆
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は従一位・摂政関白内大臣。中関白(なかのかんぱく)と称する。花山天皇退位事件で... |
|
|
一条天皇
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
|
|
花山天皇
日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。かつては華山天皇とも表記されていた。 |
|
|
藤原尊子
藤原道兼の長女。母は藤原師輔の娘・繁子。一条天皇女御、後に藤原通任夫人。暗戸屋女御、前御匣殿女御と称された。父の病没後である長徳4年(998年)、一条... |
|
|
藤原道綱
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の次男。母は藤原倫寧の娘(藤原道綱母)。官位は正二位・大納言。傅大納言と号す。 |
|
|
藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
|
|
永観
平安時代後期の三論宗の僧。実父は文章生源国経で、石清水八幡宮別当元命の養子となる。禅林寺の7世住持であり、中興の祖とされる。禅林寺の通称である「永観... |
|
|
左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
|
|
藤原教通
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白・太政大臣、贈正一位。大二条殿と号す。 |
|
|
藤原伊周
藤原伊周(ふじわらのこれちか、天延2年(974年)-寛弘7年1月28日(1010年2月14日))は平安中期の貴族。藤原北家、摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。... |
|
|
藤原忠通
平安時代後期の公卿。摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。従一位・摂政・関白・太政大臣。法性寺殿と号す。同母姉に高陽院藤原泰子、異母弟に藤原頼長がいる。 |
|
|
藤原忠平
平安時代の公卿。藤原基経の四男。母は人康親王女。兄弟に時平、仲平など。子に実頼、師輔など。小一条太政大臣と号す。漢風諡号は貞信公、国公は信濃公。兄... |
|
|
藤原実頼
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原忠平の長男。母は宇多天皇の皇女源順子。幼名は牛養(うしかい)。小野宮殿と称す。漢風諡号は清慎公... |
|
|
藤原宗円
藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み(道兼流)、道兼の孫である兼房の次男とされる。前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏など... |
|
|
藤原繁子
藤原繁子(生没年不詳)
師輔の娘。管理人の推測ではおそらく師輔の晩年の子かな。姪にあたる藤原詮子の女房として出仕したり、甥にあたる藤原道兼とカン... |
|
|
藤原師実
藤原師実(ふじわらのもろざね、長久3年(1042年)-康和3年2月13日(1101年3月14日))は院政期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原頼通の六男。官位は... |
|
|
藤原基経
平安時代前期の公卿。藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公... |
|
|
元帝
東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬伷、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王... |
|
|
プロフィール
藤原道兼(ふじわらのみちかね、応和元年(961年)-長徳元年5月8日(995年6月8日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・ 藤原兼家の三男。同母の兄弟姉妹に道長、詮子らがいる。官位は正二位・関白・右大臣。贈正一位・太政大臣。別称は、粟田殿、二条殿、町尻殿。父兼家の意を受けて 花山天皇を唆して出家退位させる。 一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄の道隆が関白となった。5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。そのため「七日関白」と呼 ...
生涯
| 永観2年(984年)8月、花山天皇が即位すると蔵人左少弁となる。 |
| 東宮(皇太子)には父兼家の娘の詮子を母とする懐仁親王が立てられていた。 |
| 花山天皇は兼家の亡兄伊尹の娘の懐子を母としており、伊尹の子の権中納言義懐が天皇を補佐して朝政を執った。 |
| このため、兼家は懐仁親王の早期の即位を望んでいた。 |
| 花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた女御藤原忯子が死去すると深く嘆き、思い悩むようになった。 |
| 蔵人として近侍していた道兼は元慶寺(花山寺)の厳久とともに仏の教えを説き、出家を勧めた。 |
| 道兼がともに出家することを約束すると天皇もその気になってしまう。 |
| 寛和2年(986年)6月23日丑の刻、道兼は花山天皇を密かに内裏から抜け出させる。 |
| 道兼は天皇が途中で足を止めるのをかき口説き、山科の元慶寺まで連れてきた。 |
| 天皇は厳久に戒を受けて剃髪した。 |
| ところが、道兼は「父に告げずに出家すれば不幸になると思い立ちました。 |
| 父に別れを告げ、出家前の姿を一目見せたいと思います」と言うや、寺から立ち去ってしまった。 |
| 天皇は騙されたと知るが、すでに手遅れ。 |
| 一方、宮中では兼家と兄の道隆が東宮の即位の準備を手早く済ませていた。 |
| 翌朝、義懐と権左中弁藤原惟成が元慶寺に駆けつけるが、出家した天皇の姿を見て絶望し、彼らも出家した。 |
| 幼い懐仁親王が即位(一条天皇)。 |
| 外祖父の兼家は摂政に任じられた。 |
| 兼家の息子たちも昇進させられ、功労者の道兼は同年7月参議となったのを皮切りに、10月には従三位権中納言。 |
| 11月、正三位、永延元年(987年)従二位、永祚2年(989年)正二位・権大納言と累進した。 |
| 正暦元年(990年)兼家が病んだのち死去すると、後任の関白には長兄の道隆が任じられた。 |
| 『大鏡』によると、自分は父に功があったのだから、当然に関白を継ぐべきだと望んでいたのに道隆が後継に選ばれたことを甚だ憎み、父の喪中であるにもかかわらず客を集めては遊興にふけったという。 |
| 道隆の政権下で、同2年(991年)内大臣、同5年(994年)右大臣へと進む。 |
| 長徳元年(995年)兄の関白道隆が重い病に伏した、道隆は後継の関白に嫡男の内大臣伊周を望むがこれは許されず、4月10日に死去した。 |
| 4月27日に道兼は関白宣下を受ける。 |
| ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した病中の道兼が関白に任じられた背景には、「関白は兄弟順に」という先例を作って道兼の次に道長を関白にしたいとする皇太后詮子の関与があったとする見方がある(倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書、2003年)P57-58)。 |
| 世に「七日関白」(在任は7日ではない、一説には奏慶(宮廷に関白として初参内)してから7日目であったからだともいう。 |
| なお、道兼は関白在任中に1度だけ陣定を開催している『小右記』長和2年1月26日条によれば、藤原実資が宰相中将であった道兼の子・兼隆に「中将・少将の随身を祭に陪従させてはならない」という規則が二条相府(道兼)の時に定められたと述べている。 |
| と称された。 |
| 死後、正一位太政大臣を追贈された。 |
| 関東の豪族宇都宮氏が道兼の後裔を称し、尊卑分脈や宇都宮系図などにはそのように記されているが、これについては異説も少なくない。 |
| 道兼の息子である兼隆より以降公卿になった者はなく、大鏡では公家としては語るべき子孫がいないことが記されている。 |
| しかしそれゆえに子孫は地方に下り在地の豪族になったともいえる。 |
人物
| 容姿は顔色が悪く毛深く醜かった『栄花物語』巻第三,さまざまのよろこび。 |
| 性格は非常に冷酷で、人々から恐れられていたという『大鏡』第四巻,右大臣道兼。 |
| また、面倒で意地が悪く、長幼の順序もわきまえずに、兄の道隆をいつも諭しているようなところがあった。 |
| 一方で老成して男らしい人物という評価もある。 |
官歴
| 天延3年(975年)。 |
| 1月7日:従五位下に叙位。 |
| 天元2年(979年)。 |
| 12月2日:侍従に任官。 |
| 天元3年(980年)。 |
| 昇殿を許される。 |
| 天元6年(983年)。 |
| 1月27日:弾正少弼に転任。 |
| 永観2年(984年)。 |
| 1月10日:蔵人に補任。 |
| 8月25日:従五位上に昇叙。 |
| 8月27日:新帝(花山天皇)蔵人に補任。 |
| 10月10日:正五位下に昇叙し、蔵人如元。 |
| 10月30日:左少弁に任官。 |
| 寛和2年(986年)。 |
| 6月23日:蔵人頭に補任。 |
| 7月5日:従四位下に昇叙し、蔵人頭如元。 |
| 7月16日:右近衛権中将に任官。 |
| 7月20日:参議に補任。 |
| 8月13日:美作権守を兼任。 |
| 10月15日:従三位に昇叙し、権中納言に転任。 |
| 11月22日:正三位に昇叙し、権中納言如元。 |
| 寛和3年(987年)。 |
| 11月11日:従二位に昇叙し、権中納言如元。 |
| 永延3年改元して永祚元年(989年)。 |
| 2月23日:権大納言に転任。 |
| 3月4日:皇太后宮(藤原兼家の娘、藤原詮子)大夫を兼任。 |
| 4月5日:正二位に昇叙し、権大納言・皇太后宮大夫如元。 |
| 永祚2年改元して正暦元年(990年)。 |
| 6月10日:右近衛大将を兼任。 |
| 正暦2年(991年)。 |
| 9月7日:内大臣に転任し、右近衛大将如元。 |
| 正暦5年(994年)。 |
| 8月28日:右大臣に転任。 |
| 正暦6年改元して長徳元年(995年)。 |
| 4月27日:関白宣下。 |
| 4月28日:藤原氏長者宣下。 |
| 5月8日:薨去。 |
| 5月25日:贈正一位太政大臣。 |
系譜
| 父:藤原兼家。 |
| 母:藤原時姫(藤原中正の娘)。 |
| 正妻:藤原遠量の娘-のち藤原顕光室。 |
| 二男:藤原兼隆(985-1053)。 |
| 三男:藤原兼綱(988-1058)(母は藤原国光の娘とも)。 |
| 二女:二条殿御方『栄花物語』(巻第14,あさみどり)に道兼の死後に生まれたとの表現があることから、生年は長徳元年(995年)ごろか。 |
| 妻:藤原繁子(藤原師輔の娘)。 |
| 長女:藤原尊子(984-1022)-一条天皇女御、のち藤原通任室。 |
| 道兼。 |
| 兼隆 兼綱 兼信。 |
| 兼房。 |
| 宗円(宇都宮氏)。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
藤原道兼さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|