11806
11952
137981
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
0
|
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 藤原隆家の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
藤原道隆
親 父
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は従一位・摂政関白内大臣。中関白(なかのかんぱく)と称する。花山天皇退位事件で... |
|
|
藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
|
|
一条天皇
親
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
|
|
藤原伊周
藤原伊周(ふじわらのこれちか、天延2年(974年)-寛弘7年1月28日(1010年2月14日))は平安中期の貴族。藤原北家、摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。... |
|
|
藤原兼家
平安時代の公卿。従一位摂政・関白・太政大臣に昇る。藤原北家流の藤原師輔の3男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』... |
|
|
藤原行成
平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言の一。世尊寺家の祖。当代の能書家として三蹟の一人に数えら... |
|
|
藤原公任
平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、関白太政大臣藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。四条大納言と号す。 |
|
|
藤原秀郷
平安時代中期の武将。下野大掾藤原村雄の子。藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ... |
|
|
枕草子
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕... |
|
|
藤原実資
平安時代の公卿。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の四男。後に祖父・実頼の養子となる。幼名は大学丸。小野宮を号す。藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領... |
|
|
藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
|
|
三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ/いやさだ)。享年42。在... |
|
|
藤原定子
姉
平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は「一条院皇后宮」。『枕草子』の作者清少納言が... |
|
|
高階貴子
母
高階貴子(たかしなのきし/たかこ、生年不詳-長徳二年(996年)10月没)は平安時代の女流歌人。女房三十六歌仙に数えられる。通称は高内侍(こうのないし)、... |
|
|
源俊賢
源俊賢(みなもとのとしかた、天徳3年(959年)-万寿4年6月13日(1027年7月19日))は平安時代中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣源高明の三男。正二位権大納... |
|
|
藤原定家
鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中... |
|
|
藤原為光
妻 親
平安時代中期の公卿。藤原北家、右大臣・藤原師輔の九男。官位は従一位・太政大臣。後一条太政大臣、法住寺殿とも称される。漢風諡号は桓徳公、国公は相模公。 |
|
|
藤原純友
平安時代の貴族。右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下・伊予掾。瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知ら... |
|
|
プロフィール
- 藤原隆家とは
- 生涯
- 人物
- 隆家の子孫
- 系譜
- 関連項目
- 関連サイト
藤原隆家(ふじわらのたかいえ、天元2年(979年)-寛徳元年正月1日(1044年2月2日))は、平安時代の公卿。 一条天皇の摂関を務めた 藤原道隆の四男( 高階貴子を母とする兄弟では次男)。極官は正二位中納言。幼名は阿古(あこ)。
生涯
| 永祚元年(989年)正月29日、11歳で元服し従五位下侍従、正暦4年(993年)3月10日右中将、翌5年8月28日、非参議・従三位に叙され公卿に列す。 |
| 父・道隆の死に先立ち、長徳元年(995年)4月6日に権中納言に至る。 |
| 翌2年4月24日、花山法皇奉射・東三条院呪詛・大元帥法を行った罪状三ヶ条を以って出雲権守に左遷された(内大臣だった同母兄伊周は大宰権帥に左遷)。 |
| これを長徳の変という。 |
| 翌年4月召還され、長徳4年10月23日兵部卿に任じた後、長保4年(1002年)9月24日、権中納言に復した。 |
| 寛弘4年(1007年)正月20日従二位、同9年正月27日按察使、長和3年(1014年)11月7日任大宰権帥、翌4年4月21日正二位と、徐々に宮廷社会で復帰していったが、官は中納言に止まった。 |
| 三条天皇代、眼病原因は『御堂関白記』によれば「突目」、すなわち先の尖った物による外傷のため。 |
| の治療の為、進んで大宰権帥を拝命し九州大宰府に下り、在任中の寛仁3年(1019年)4月、当地で刀伊の入寇を撃退し武名を挙げた。 |
| 日本の領土に上陸した敵軍を撃退した日本最初の人物である。 |
| なお、権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡(今でいう天然痘)が大流行した。 |
| 刀伊(女真族と考えられている)が大陸から持ち込んだもので、隆家の入京とともに流行したと噂された。 |
| 寛仁3年12月、大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。 |
| 治安3年(1023年)12月15日、次男経輔の右中弁昇任のため、中納言を退く。 |
| 長暦元年(1037年)8月9日藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられたが、長久3年(1042年)正月29日それを辞した。 |
| 寛徳元年(1044年)正月1日、正二位・前中納言として薨去、享年66。 |
人物
| 天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事『大鏡』道隆伝や、姉中宮の女房清少納言との応酬『枕草子』、隆家は「三位中将」または「中納言」の官名でしばしば登場。 |
| など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。 |
| 姉定子の生んだ敦康親王の立太子を拒否した一条天皇を「人非人」と非難したり、権力者道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子の皇后宮大夫を引き受けたり『小右記』長和元年4月27日条するなど、気骨のある人物として知られた。 |
| その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。 |
| 「もし敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという。 |
| また、父・道隆や兄・伊周に対しては批判的な態度を取り続けていた藤原実資からは可愛がられ、彼の日記である『小右記』には隆家が実資に悩み事を打ち明ける記事(寛弘2年正月5日条・長和2年8月13日条・同年9月8日条)や実資が大役に任じられた隆家の息子を気遣う記事が見られる(寛仁元年9月16日条・同4年10月30日条)。 |
| 特に長和2年の両記事には実資が隆家に対して眼病の治療と道長からの圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、それを受けた隆家が「深有鎮西之興」を抱いたことが記されている関口力『摂関時代文化史研究』(思文閣出版、2007年)ISBN978-4-7842-1344-3P23-26・77-79。 |
| この大宰権帥の任官に際して、「天気無動、但左府猶有遏絶者」と『小右記』長和3年5月7日条にあるように、道長に強く妨害され決定までに9ヶ月を要したが、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、隆家の希望は聞き届けられた。 |
| 『後拾遺』(2首)・『新古今』(1首)の勅撰歌人である。 |
| 漢詩も文人の家系に恥じず、『本朝麗藻』に七言律詩1首を残している。 |
隆家の子孫
| 隆家の娘は長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王室『小右記』寛仁4年(1020年)10月23日条・治安元年(1021年)2月1日条によれば、隆家は敦儀親王を婿取ろうとして道長の「気色不快」を招き、その結果翌年に延引した。 |
| 、もう一人が参議藤原兼経室となっている。 |
| 隆家の長男良頼は正三位権中納言に進み、その娘は参議源基平室となり後三条天皇の寵愛をうけた源基子(実仁親王・輔仁親王の生母)を生んだ。 |
| 良頼の4代後の子孫に、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したという池禅尼がいる。 |
| 隆家の次男経輔(1006年-1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。 |
| 経輔の5世孫にあたる従三位忠隆の息女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼は後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。 |
| 同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆の息女七条院殖子は後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清は内大臣の位にまで昇った。 |
| 隆家流は女系を伝って皇室・摂家にその血を残し隆家二女(参議兼経室)の4世孫にあたる従三位季行の息女が九条兼実室となり良経を生んでいるため、九条家にもその血は入った。 |
| 、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の五堂上家を出して明治維新に至る。 |
| なお、南北朝時代に懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を自称し、祖先にあたる藤原政則を隆家の子息としていた。 |
系譜
| 妻:源重信の娘。 |
| 妻:藤原景斉の娘。 |
| 長男:藤原良頼(1002-1048)。 |
| 妻:源兼資の娘。 |
| 二男:藤原経輔(1006-1081)。 |
| 女子:敦儀親王室。 |
| 女子:藤原兼経室。 |
| 妻:藤原為光の娘。 |
| 男子:藤原季定。 |
| 妻:加賀守正光の娘(姓不明)。 |
| 男子:藤原良員。 |
| 男子:藤原基定。 |
| 男子:行昭(1015-1062)-延暦寺権律師。 |
| 男子:隆明(1021-1104)-園城寺長吏、大僧正。 |
|
1002年
|
権中納言に復した |
|
1023年
|
次男経輔の右中弁昇任のため、中納言を退く |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
藤原隆家さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|