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つながりの強いひと
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源実朝
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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藤原頼嗣
鎌倉幕府5代将軍である。五摂家のひとつ、九条家の出身の摂家将軍で九条頼嗣(くじょうよりつぐ)とも呼ばれる。父は鎌倉幕府4代将軍藤原頼経。官位は従三位... |
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九条道家
親 父
鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯... |
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源頼家
妻 親
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿... |
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御家人
鎌倉幕府御家人制の展開 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 七海 雅人著... |
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北条時頼
鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年-1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗の父。 |
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北条経時
鎌倉時代前期の北条氏得宗家の一門。鎌倉幕府の4代執権(1242年-1246年)である。北条時氏の長男で、3代執権北条泰時の嫡孫にあたる。 |
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北条泰時
鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権である。(在任:1224年-1242年) |
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西園寺公経
親
鎌倉時代の公卿・歌人。内大臣藤原実宗の子。西園寺家の実質的な祖とされている。従一位・太政大臣。一条入道太相国、西園寺を号す。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経... |
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源義朝
在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平... |
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北条政子
平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡姫。兄弟姉妹には宗時、義... |
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宗尊親王
鎌倉幕府6代将軍で皇族での初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の皇子。母は蔵人木工頭平棟基の娘・棟子。後深草天皇、亀山天皇らの異母兄。正室は近衛宰子、子に... |
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竹御所
妻
鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府第二代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)。母は『尊卑分脈』で源義仲の娘とされるが、竹の御... |
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北条時政
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時家の子。源頼朝の妻北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。家系は桓武平氏平直方... |
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藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
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藤原頼長
平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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北条義時
北条義時(ほうじょうよしとき)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。伊豆国の豪族、北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。鎌倉幕府の第2代執権であ... |
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比企能員
比企能員(ひきよしかず)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国、または安房国出身とされる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一... |
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プロフィール
藤原頼経(ふじわらのよりつね、建保6年1月16日(1218年2月12日)-康元元年8月11日(1256年9月1日))は、鎌倉幕府4代将軍である。五摂家の一つ九条家出身で、 九条道家の三男。官位は正二位・ 権大納言。九条頼経(くじょうよりつね)とも呼ばれる。七条将軍と号す。
経歴
| 九条道家と西園寺公経の娘・掄子の子として生まれる。 |
| 生まれたのが寅年・寅日・寅刻だったので、幼名を三寅(みとら)と言った。 |
| 建保7年(1219年)に源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。 |
| そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる頼経が鎌倉に迎え入れられた。 |
| その時、2歳。 |
| その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)元服し、頼経と名乗る。 |
| 翌嘉禄2年(1226年)将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。 |
| 寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。 |
| なお、実朝暗殺から頼経が将軍就任をするまでの7年間、鎌倉殿としての任務は北条政子が代行(尼将軍)し、鎌倉幕府には将軍が不在であった。 |
| 北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、加えて天福2年(1234年)には正妻竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。 |
| しかしながら、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・北条朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。 |
| また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として幕府・朝廷の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。 |
| 特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く父道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。 |
| そのため、頼経と北条経時との関係が悪化し、寛元2年(1244年)経時により将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲らされる『吾妻鏡』では頼経の意志によるものと記されるが、状況から勘案して信じるに足らないとされる(石井進『日本の歴史7鎌倉幕府』中公文庫,1974年,415頁)。 |
| 翌寛元3年(1245年)鎌倉久遠寿量院で出家、行賀と号する。 |
| その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により寛元4年(1246年)に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。 |
| また、この事件により九条道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)。 |
| その後、宝治元年(1247年)三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)。 |
| また、建長3年(1251年)足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、九条道家・頼経父子が関与していたとされる。 |
| 建長3年(1252年)、頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された。 |
| 父道家は、まもなく失意の内に没した。 |
| 4年後の康元元年8月11日(1256年9月1日)、39歳で死去。 |
| 翌月には頼嗣も死去している。 |
| この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之は九条家三代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している。 |
| 吉川弘文館「鎌倉北条氏の興亡」、新人物往来社「鎌倉・室町人名事典」の九条頼経の項目(共に奥富による執筆)など。 |
| 藤原(九条)頼経と藤原(九条)頼嗣の二代を、摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。 |
官歴
| 嘉禄元年(1226年)12月29日、元服。 |
| 嘉禄2年(1226年)1月27日、正五位下に叙し、右近衛権少将に任官。 |
| 3月12日、禁色を許される。 |
| 3月25日、従四位上に昇叙し、右近衛中将に転任。 |
| 4月8日、正四位下に昇叙、右近衛中将は元の如し。 |
| 貞永元年(1232年)1月30日、備後権守兼任。 |
| 2月27日、従三位に昇叙、右近衛中将・備後権守は元の如し。 |
| 天福元年(1233年)1月28日、権中納言に転任。 |
| 文暦元年(1235年)12月21日、正三位に昇叙、権中納言は元の如し。 |
| 嘉禎元年(1235年)10月8日、陸奥出羽按察使兼任。 |
| 11月19日、従二位に昇叙、権中納言・陸奥出羽按察使は元の如し。 |
| 嘉禎2年(1236年)7月20日、正二位に昇叙、権中納言は元の如し。 |
| 民部卿を兼任。 |
| 暦仁元年(1238年)2月24日、右衛門督兼任。 |
| 2月25日、検非違使別当兼帯。 |
| 3月7日、権大納言に昇叙、検非違使別当・右衛門督は元の如し。 |
| 4月18日、権大納言・検非違使別当・右衛門督辞任。 |
| 寛元2年(1244年)4月28日、征夷大将軍辞職。 |
| 寛元3年(1245年)7月5日、出家。 |
系譜
| 母:西園寺倫子『尊卑分脈』では綸子、『百錬抄』では淑子とする。 |
| -西園寺公経の娘。 |
| 妻:源鞠子(竹御所)-源頼家の娘。 |
| 妻:藤原親能の娘。 |
| 男子:九条頼嗣(1239-1256)。 |
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1219年
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源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍... |
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1226年
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正五位下に叙し、右近衛権少将に任官 |
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