| 大学著書等には「北海道産業大学」と記述されることが多いが、該当する大学は確認されていない。 |
| 「北海道産業短期大学」(後に道都大学短期大学部)は存在する。 |
| にて教職課程を修得するが、教師への適性に自ら疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊の下で馬産の手伝いをするようになる。 |
| しかし、その頃はホースマンになろうという確固たる信念はなく、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。 |
| しかし、「青藍牧場」で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。 |
| そして田中の強い勧めで渡英、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎の下で厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方等、今日の藤沢厩舎を築くことになる競馬理論を形成していくことになる。 |
| 彼の信念である「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」はその最たるものであろう。 |
| ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、藤沢が渡英した翌年、急逝している。 |
| 帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として日本のホースマンとしての第一歩を踏み出し、二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。 |
| 菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散した後は野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。 |
| そこで名馬シンボリルドルフと後の厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる。 |
| 1987年、独立して厩舎を開業。 |
| 初勝利は、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。 |
| 開業後順調に勝利を積み重ね頭角を現す。 |
| 勝利数の割に重賞を勝てず手腕が疑問視されたこともあったが1992年にシンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇を達成すると、翌1993年には再びシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を制覇。 |
| それからもタイキブリザード、バブルガムフェロー、レガシーオブゼルダ等を率いて数多の戦果を挙げ、1998年には管理馬タイキシャトルがフランスマイルレースの最高峰「ジャック・ル・マロワ賞」を鞍上岡部幸雄で1.9倍の断然人気で制覇する。 |
| (なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊で「モーリス・ド・ゲスト賞」を制覇している)。 |
| この頃の藤沢の管理手法は、馬に無理はさせず、クラシックは意識せずに活躍は古馬になってからでもいいという考え方であった。 |
| これは厩舎主戦騎手の岡部幸雄の馬優先主義の考えによるところも大きく、岡部が桜花賞を勝てなかった所以のひとつともされる。 |
| そのためか、日本競馬の最高峰、東京優駿(日本ダービー)には縁がなく、有力とされていたバブルガムフェローの故障などもあり、2001年までロンドンボーイ(1989年/24頭中22着)ただ1頭しか出走馬がいなかった。 |
| だが、2002年に久しぶりに管理馬を東京優駿(日本ダービー)出走させることとなり、この際にはシンボリクリスエス(2着)をはじめ、所属馬を一気に4頭も送り出した。 |
| その後クラシック競走を意識するようになる。 |
| 2004年には厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで飾り、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を3連勝する。 |
| 2005年に厩舎の主戦騎手であり、調教等で所属馬に英才教育を叩き込んでいた岡部幸雄が引退してからは、一時期のようにオープン馬を十数頭抱えるという事は無くなってきたが、それでも美浦のトップステーブルとの評価は揺らいでいない。 |
| 藤沢の調教手法は「馬なり主体」「速い時計を出さない」点に特徴があるとされる。 |
| しかしこれは必ずしも馬に負荷をかけないということではない。 |
| 元調教助手の野村功は、追い切りをかけた翌日にキャンターをするなど運動量の豊富さは中央競馬の厩舎の中でも随一であると指摘している『馬人野村功藁の匂いが好きだ』(「大阪スポーツ」2008年9月7日付10面)。 |
| 2008年、管理馬のカジノドライヴをベルモントステークスに出走させることが明らかになった。 |
| 前哨戦のピーターパンステークスを勝利したが、ベルモントステークスはレース当日に出走を回避した。 |
| 同年、管理馬アムールマルルーを2009年のジョッケクルブ賞(仏ダービー)に、ダート戦で4連勝を飾ったサトノコクオーを2009年のドバイワールドカップに挑戦させることを明らかにしたが、実現はしなかった。 |
| 2009年9月27日の中山8R3歳上500万下でワールドカルティエが1着となり、調教師として史上13人目のJRA通算1000勝を達成した。 |