769860
1661460
1748501
%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B3%A2%E9%9F%BF
%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B3%A2%E9%9F%BF
%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B3%A2%E9%9F%BF
%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B3%A2%E9%9F%BF
%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B3%A2%E9%9F%BF
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
タグはありません
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
中村真一郎
中村真一郎(なかむらしんいちろう、1918年(大正7年)3月5日-1997年(平成9年)12月25日、なお旧字体の「眞一郎」名義での出版もある)は日本の小説家・評論... |
|
|
永倉新八
幕末の武士(松前藩士)、新選組隊士、明治時代の剣術家。姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番組組長... |
|
|
家老
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
|
|
宇江佐真理
宇江佐真理(うえざまり、1949年10月20日-)は日本の時代小説作家。本名、伊藤香。 |
|
|
円山応挙
友達
江戸時代中期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。諸説あるが「足のない幽霊... |
|
|
宋紫石
師事
江戸時代中期の画家。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫または霞亭。紫石のほか雪渓・雪湖・... |
|
|
菅茶山
友達
江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。 |
|
|
松前資広
江戸時代の大名。蝦夷松前藩の第7代藩主。享保11年(1726年)、6代藩主・松前邦広の長男として生まれる。父の死後、寛保3年(1743年)に家督を相続し、明和2... |
|
|
間宮林蔵
間宮林蔵(まみやりんぞう、安永9年(1780年)-天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の... |
|
|
頼山陽
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
|
|
光格天皇
江戸時代の第119代天皇(在位:安永8年11月25日(1780年1月1日)-文化14年3月22日(1817年5月7日))。幼名を祐宮(さちのみや)という。諱ははじめ師仁(も... |
|
|
木村蒹葭堂
江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家... |
|
|
高田屋嘉兵衛
江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。 |
|
|
渋江抽斎
江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり、ほかにもいくつかの号を使... |
|
|
建部綾足
江戸時代中期の俳人・小説家・国学者・画家。片歌を好み、その復興に努めた。 |
|
|
森鴎外
明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学... |
|
|
谷文晁
江戸時代後期の日本の画家。江戸南画の大成者であり、その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。名は正安。はじめ号は... |
|
|
田本研造
現在の三重県熊野市出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。 |
|
|
谷崎潤一郎
日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得... |
|
|
松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
|
|
プロフィール
蠣崎波響(かきざきはきょう、宝暦14年5月26日(1764年6月25日)-文政9年6月22日(1826年7月26日))は江戸時代後期の画家、松前藩家老。
人物
| 松前藩第12世藩主松前資廣の5男に生まれる。 |
| 13世藩主の道廣は異母兄。 |
| 母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。 |
| 幼名は金介、ついで弥次郎、のち将監と称した。 |
| 名は広年、字は世祜、画号は初め東岱、ついで杏雨または京雨、後に波響を用いた。 |
| 別号に梅香舎、梅痩舎、柳民舎、滄岡軒などがある。 |
| 家老職を継いだ長男波鶩(広伴)も画家として知られる。 |
| 生まれた翌年に父が亡くなり、兄が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の跡継養子になる。 |
| 幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。 |
| 叔父の松前広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。 |
| 間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。 |
| 天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。 |
| 波響と号したのはこのころからである。 |
| 寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市立図書館に2点所蔵。 |
| 1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。 |
| 寛政3年(1791年)3月に同図を携え上京、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。 |
| 円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。 |
| 文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前藩は陸奥国伊達郡梁川に転封され、波響も梁川に移った。 |
| 文政4年(1821年)松前藩が復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。 |
交友
| 画人では前記円山応挙を始め、岸駒、四条派の松村呉春、皆川淇園等と、文人では漢詩人菅茶山や六如、橘南谿、伴蒿蹊等と生涯を通じ交流があった。 |
| また木村兼葭堂を通じ、大名家では増山正賢や松浦静山等と交流した。 |
| 京都をたびたび訪れ、松前藩家老であり、温和な性格で社交的な波響は歓待された。 |
| 森鴎外が『伊澤蘭軒』で、波響を紹介している。 |
| 地元では度々展覧会が催されたが、全国的に知られたのは中村真一郎『蠣崎波響の生涯』からである。 |
| 自筆資料は函館市立図書館に所蔵されている。 |
関連文献
| 高木重俊 『蛎崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠村舎遺稿』 幻洋社、2002年。 |
| 高木重俊 『蠣崎波響漢詩研究 詩業、画業に生きた松前の家老の研究』 幻洋社、2005年。 |
| 中村真一郎 『蠣崎波響の生涯』(新潮社、1989年)読売文学賞。 |
| 磯崎康彦 『松前藩の画人と近世絵画史蛎崎波響と熊坂適山・蘭斎兄弟』雄山閣1986年。 |
| 高橋博巳 『画家の旅、詩人の夢』ぺりかん社2005年。 |
| 永田富智 『蛎崎波響伝松前絵師』 道新選書9・北海道新聞社1988年。 |
| 五十嵐聡美 『アイヌ絵巻探訪歴史ドラマの謎を解く』。 |
| ミュージアム新書・北海道立近代美術館編、北海道新聞社2003年。 |
| 『波響論集』 河野常吉ほか (波響論集刊行会編 1991年)。 |
| 『「蠣崎波響とその時代」展 図録』 北海道立函館美術館編、1991年。 |
| 『松前波響画集』函館青年会議所編「松前波響」編集委員会、1990年。 |
| 『蠣崎波響展松前の明星 図録』 北海道立近代美術館編、1979年。 |
|
1773年
|
江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学... |
|
1807年
|
幕府が北海道を直轄地にしたため、松前藩は陸... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
蠣崎波響さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|