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宣宗
金の第8代皇帝(在位:1213年9月22日-1224年1月14日)。章宗の庶長兄に当たり、宣孝太子の顕宗・允恭の庶長子である。 |
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章宗
章宗(しょうそう)は金の第6代皇帝(在位:1189年1月20日-1208年12月29日)。第5代皇帝である世宗の嫡孫。父は世宗の嫡男でその皇太子であった允恭。後に第8... |
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廃帝
東晋の第7代皇帝。3代皇帝成帝の次男で6代皇帝哀帝の同母弟。兄の死で即位するが、穆帝・哀帝時代から権力を牛耳っていた桓温の専横がなおも続いた。365年、... |
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海陵王
金の第4代皇帝(在位:1150年1月9日-1161年12月15日)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・宗幹(斡本=オベン)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落... |
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衛王
中国で皇族が封じられた諸侯王としての王号。衛は現在の河南省の一部に当たる。周代から秦初までは諸侯国として存在したが、王号を称することはなかった。中... |
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熙宗
熙宗(きそう)は金の第3代皇帝(在位1135年2月10日-1150年1月9日)。金の太祖阿骨打の嫡子である宗峻(繩果)の長子。正妻は女真貴族の裴満忽達の娘の裴満氏... |
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福興
金の官僚。金の皇室の姓である女真完顔部の出身で、太祖第6子の梁王斡啜(宗弼・兀朮)の曾孫とされる。中国名は承暉、字は維明。女真名は福興。 |
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完顔従恪
金の第7代皇帝である衛紹王の嫡子。女真名は不明。姉にモンゴルに嫁いだ哈敦(ハトン)公主がいる。皇太子時代には胙王・左丞相に封じられる。1213年に父が獰... |
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胡沙虎
金の女真貴族出身の軍人。姓は紇石烈(こつせきれつ)、中華名は執中。東平路猛安の人で、女真名は胡沙虎。先祖は阿骨打に従い、功績を残した女真人元勲で、... |
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耶律留哥
金に属した遼の宗室につらなる契丹人であり、のちに金に反乱を起こし、東遼政権を樹立した人物である。妻は姚里氏、子は耶律薛閣ら。 |
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哀宗
元代初期であると考えられている。長兄は皇太子の守忠、次兄は濮王(後に荊王)の守純である。 |
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完顔允恭
金の皇族。第5代皇帝の世宗の次男で、その嫡子。生母は女真烏林荅氏。女真名は胡土瓦(ことが、女真音;クトゥハ)、中国名は允恭。同母弟に趙王孰轟(允昇)... |
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欽宗
北宋の第9代(最後の)皇帝。南宋で即位した高宗の長兄に当たる。 |
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阿骨打
阿骨打(あくだ、アグダ)は金の初代皇帝(在位1115年1月28日-1123年9月19日)。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では女真名である阿骨打(ア... |
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胡沙
金の官僚。金の皇室の姓である女真完顔部の出身で、中国名は承裕、女真名は胡沙。 |
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顕宗
顕宗(けんそう)東アジアの君主の廟号の一つ。後漢の顕宗明帝(劉荘、在位57年-75年)東晋の顕宗成帝(司馬衍、在位325年-342年)高麗の顕宗大孝徳威達思元... |
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ジェベ
モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では者別、哲別など、『集史』などのペルシア語資料で... |
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末帝
中国の歴代王朝の最後の皇帝のうち、次の王朝から諡号・廟号などを授からなかった人物に対する便宜上の呼称。三国時代の呉の末帝(孫皓、在位:264年-280年)... |
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康宗
康宗(こうそう、1152年-1213年)は第22代高麗王(在位:1211年-1213年)。諡号は浚哲文烈亶聰明憲貽謀穆清元孝大王、姓は王、諱は。別名、王璹、王貞。明宗... |
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クビライ
モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日-1294年2月18日。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文... |
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プロフィール
衛紹王(えいしょうおう)は、金の第7代皇帝(在位:1208年12月29日-1213年9月11日)。諱は允済(ユンジ)、後に永済。女真名は果縄(ハヒェン)。殺害後に帝号を剥奪されたため、皇帝としての諡号はないが、即位前の 衛王の位に復して「紹」と諡された。すなわち衛紹王とは「衛の紹王」である。 世宗の第7子で、生母は李元妃である。子に 皇太子の梁王従恪らがいる。同母兄に鄭 王允蹈、同母弟に潞 王允徳がいる。
生涯
| 父の存命中に薛王、滕王に封じられ、甥の章宗により潞王、韓王、さらに承安2年に衛王に封じられる。 |
| このころ、異母兄である宣太子允恭(章宗の実父)が皇帝位(顕宗)を追贈されたために忌諱し、名前を「永済」と改めている。 |
| 長身の美男子で質素な人物としての評価がある一方で、暗愚な一面も認められる。 |
| 章宗の命によりモンゴルへの正使として、宗室の福興(完顔承暉)を副使に従えてモンゴル平定直前のチンギス・ハーンの所へ赴いた。 |
| だが衛王の容貌を見たチンギスは愚鈍であると言い放ち、わざと衛王を無視して副使の福興に対応し、謁見が終わると自らの幕舎に帰った。 |
| かつてない屈辱を受けた衛王は帰朝後、章宗に対して野粗で野蛮なモンゴル族を滅ぼすべきであると直訴している。 |
| 章宗が崩御する間際、6人の皇子を夭折させていた章宗は、親密で年齢が近い叔父である允済を後継者に指名して崩御した。 |
| こうして允済は皇帝に即位することとなった。 |
| 衛王即位の報を聞いたチンギスは、暗愚な允済の即位を吉報とし、仇敵の金を滅亡させる好機であると考え、遠征の準備に着手した。 |
| なお、チンギスは衛紹王の皇帝即位の報を聞いた際に「中国の皇帝は天上の人がなると思っていたが、衛王ごときでもなれるとは。 |
| あんな愚か者に何ができるか」と言って南に向かって唾を吐いた(金はモンゴル人たちから見れば南の方にあるため、それにあてつけたもの)と今に伝えられている。 |
| また、允済もモンゴル軍の来襲に備え、準備を調えた。 |
| 1211年春、チンギス・ハーンは本拠地に2000騎程を留め、残るモンゴル軍全軍を率いて金遠征に動き出した。 |
| 騎兵の持つ長所を最大限に活用し、華北地方を縦横無尽に駆け回るモンゴル軍の侵攻に対して、允済は有効な対策が取れずにいた。 |
| 允済は定薛将軍に命じてモンゴル軍侵攻の防御に当たらせたが、定薛将軍を初め金軍は敗北、壊滅した。 |
| また遼の旧宗族(広義の皇族)であった契丹人の耶律留哥が自ら遼王と称してモンゴル軍に呼応し、謀反を起こしている。 |
| 1213年8月、敗戦責任を追及されることを恐れた将軍胡沙虎の兵乱により、允済は幽閉された。 |
| 翌月に胡沙虎の命を受けた宦官の李思中によって毒殺されている。 |
| 允済の死後、胡沙虎は海陵王の例に倣い、帝号の剥奪を計画した。 |
| 朝廷内には允済に同情的な勢力が存在することから、東海郡侯への降格が決められた。 |
| しかし胡沙虎が殺害された後の貞祐4年、即位直前の衛王に復されて「紹」の諡号が追贈されている。 |
| 衛紹王の娘である哈敦(ハトン)公主は跡を継いだ従兄の宣宗の命で、モンゴルへと下嫁した。 |
| 皇太子であった息子の従恪は、父が毒殺された後も20年間幽閉され続けたが、1234年の金滅亡時にモンゴル軍によって処刑されている。 |
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1213年
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敗戦責任を追及されることを恐れた将軍胡沙虎... |
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