| 住友鋳鋼所職工から労働運動に身を投じ、住友鋳鋼所、大阪電灯、藤永田造船所、川崎・三菱造船所争議などの争議の指導と検束を繰り返す。 |
| 大正8年(1919年)に友愛会に入り松岡駒吉に接近、大正15年(1926年)には社会民衆党の結成に参加した。 |
| 昭和3年(1928年)、第1回普通選挙で社会民衆党から立候補し、初当選。 |
| 昭和7年(1932年)以降は社会大衆党に所属し幹事に就任した。 |
| 昭和13年(1938年)3月16日、衆議院本会議における国家総動員法案の審議に際し、同法案を支持する立場から、近衛文麿首相に対し「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」と激励。 |
| 全体主義的独裁者への共鳴を示したが、社会大衆党を好ましく思っていなかった政友会・民政党の両党によりスターリンの名を肯定的に挙げた部分が問題とされ、衆議院で除名決議において賛成320票・反対43票で88%の賛成を得て、議員を除名された(翌年の補欠選挙で復活)。 |
| 1940年3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席。 |
| 社会大衆党書記長麻生久による幹部除名策略によって党首安部磯雄や水谷長三郎らとともに党除名処分を受ける。 |
| 昭和17年(1942年)の翼賛選挙では非推薦で当選。 |
| 翼賛政治会や大日本産業報国会と距離を置き、密かに東條英機内閣の倒閣運動にも加わった。 |
| その結果、戦後の公職追放を免れた。 |
| 昭和20年(1945年)の政党復活で日本社会党に所属し社会党右派の中で頭角を表す。 |
| これより先、保守政治家の鳩山一郎らと共同での新党設立を協議したが、互いの支持者の意向を踏まえて「政治的余韻を残したままで別れた」(西尾末広『西尾末広の政治覚書』)。 |
| 昭和21年(1946年)、片山哲委員長の下で書記長に就任。 |
| 昭和22年(1947年)、第23回衆議院議員総選挙で社会党が衆議院第一党になったと聞かされた時には思わず「本当かい、そいつぁえらいこっちゃ」と本音を漏らしている。 |
| 西尾は社会党が政権を担当するのに準備不足ということを考えていたため、非社会党首相を擁立しつつ、閣僚は社会党を多数擁立する内閣を想定していた。 |
| 具体的には、自由党の吉田茂内閣続投を想定していたが、吉田は容共の社会党左派を嫌い、排除を要求してきた。 |
| その結果、吉田続投路線は見送られた。 |
| 社会党首班政権の片山内閣が組閣された際には、内閣官房長官として入閣。 |
| 翌年の芦田内閣では副総理に就任するが、土建献金で証人喚問を受ける。 |
| その後、副総理を辞任するも、昭和電工事件で10月に逮捕される。 |
| 献金問題では証人喚問において「書記長である西尾末広個人がもらった」と主張、社会的な非難を受けるが、自らの主張を貫き両事件とも無罪を勝ち取る。 |
| 昭和27年(1952年)、衆議院議員に返り咲くが、社会党が左右両派に分裂し右派社会党に所属した。 |
| 昭和30年(1955年)、左右両派の革新統一日本社会党が結党されるも役職には就かなかった。 |
| 昭和34年(1959年)の第4回参院選で社会党が敗北(議席そのものは増えたが、自民党が大勝した)すると、左派からは社共共闘で行くべきとの主張が上がった。 |
| 反共主義の立場を取る西尾はこれに反発し、党内に社会党再建同志会を結成。 |
| それが新党へ繋がって行く。 |
| 西尾の理想は、政権交代可能な健全な社会主義政党を築くことであった。 |
| 従って、安保闘争においても代案を用意すること、さらに共産党の排除を主張した。 |
| しかし左派イデオロギー過剰な当時の社会党には西尾の現実主義は受け入れられず、12月に西尾自ら社会党離党し、社会クラブを結成。 |
| 昭和35年(1960年)1月24日、民主社会党を結成(衆院40・参院17)。 |
| 初代委員長に就任し片山哲が最高顧問に就任。 |
| 安保国会では、社共両党と同様に反対姿勢で取り組むが安保以外の予算案や政府自民党案に同調する構えを見せる。 |
| 新安保条約の自然発効後、自民党の福田赳夫から、岸信介の後継首相への誘いを受けた。 |
| 西尾を立てることで、民社・社会両党を巻き込んだ挙国一致内閣を狙ったものだが、西尾が断ったため幻となった。 |
| 同年の衆院選では議会主義擁護を掲げ、社会党と対決姿勢を取った。 |
| しかし、10月12日、日比谷公会堂で浅沼稲次郎暗殺事件が起こると「しまった」と言ったという。 |
| 社会党に同情が集まることを恐れたのである。 |
| 結果、衆院選では23議席減の17議席で完敗。 |
| 厳しい船出となった。 |
| 昭和40年(1965年)の日韓国会では、自民党と共に基本条約を強行採決するという荒業を見せる。 |
| 昭和41年(1966年)、社会党に「民社党は第2保守党だ」と批判されると、西村栄一書記長に「社会党は第2共産党だ」と反論させた。 |
| 昭和43年(1968年)、西尾は委員長を退任し常任顧問に就任。 |
| 西村を後任に指名する。 |
| 西村、春日一幸、佐々木良作らの下で常任顧問として健在するも、昭和47年(1972年)に政界引退。 |
| 昭和56年(1981年)10月3日、脳内出血と腎不全のため90歳にて永眠した。 |