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つながりの強いひと
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木村肥佐生
木村肥佐生 『チベット潜行十年』 から 2009年07月11日 | 抜き書き もと毎日新聞社、1958年7月刊。
彼〔ガヤツェレン。カンパ人〕の話によると、この辺の者... |
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青木文教
ダライ・ラマ13世の書簡やチベットから請来したコレクションが所蔵されている。 |
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河口慧海
黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をお... |
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野元甚蔵
某所にて「野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会」。 1939年から約1年間、ダライラマ14世が即位した当時のチベットに滞在、今年数えで88歳を迎える野元さんが法王... |
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密命
佐伯泰英の時代小説「密命見参!寒月霞斬り」を原作にしたテレビ東京の時代劇テレビドラマ。金曜時代劇枠で2008年4月18日から6月13日まで放送された。字幕放送... |
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多田等観
多田等観(ただとうかん、1890年(明治23年)7月1日-1967年(昭和42年)2月18日)は僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を... |
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能海寛
チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 |
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寺本婉雅
愛知県海東郡出身で、日本人として3番目にチベットに入った東本願寺の僧である。 |
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長田幸康
チベットに渡航し、仏教文化を巡るツアーの現地コーディネートを担当している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 第1章 悩み、... |
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矢島保治郎
矢島保治郎(やじまやすじろう、1882年(明治15年)8月23日-1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした... |
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成田安輝
成田安輝 【なりた-あんき】 1件の用語解説(成田安輝で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 成田安輝 なりた-あんき  ... |
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江本嘉伸
江本 嘉伸(えもと よしのぶ)
横浜市生まれ。地平線会議代表世話人 ジャーナリスト。元読売新聞編集委員 東京外国語大学山岳会会員、日本山岳会会員。南北... |
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西堀栄三郎
日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 |
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中川一政
東京都生まれの洋画家、美術家、歌人、随筆家である。 |
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徳川義親
植物学者、侯爵、貴族院議員、尾張徳川家第19代当主である。生物学者としては、昭和天皇の兄弟弟子にあたる。名の読みは「よしちか」が正しいが、明治維新以... |
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山口瑞鳳
日本の仏教学者、チベット学者。東京大学名誉教授、成田山仏教研究所客員研究所員。文学博士(東京大学、1979年)。石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)生まれ... |
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東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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大庭柯公
日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋(かげあき)。山口県長府(現・下関市)出身。 |
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興亜義塾
祖国敗戦の噂が流布されるなか、“ヒマラヤ越えのアルバイト”に自活の道を見出す。内陸アジアの厳しい自然と対して生きる純朴な人びととの接触を通し、人類平... |
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プロフィール
西川一三(にしかわかずみ、1918年9月17日-2008年2月7日)は、日本の情報部員。日中戦争下に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行。戦後インドを経て帰国。
経歴
| 山口県阿武郡地福村(現山口市)に生まれる。 |
| 1936年、福岡県中学修猷館を卒業後、南満州鉄道(満鉄)大連本社に入社する。 |
| 1941年、「西北」への憧れから満鉄を退社し、駐蒙古大使館が主宰する情報部員養成機関である興亜義塾に入塾する。 |
| 1943年、同塾を卒業後、駐蒙古大使館調査部情報部員となるや、東條英機首相より、「西北支那(中国)に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」との特命を受ける。 |
| 背景には、満州、モンゴル、トルキスタン、チベットと手を結び、中国を背後から包囲する「ツラン民族圏」構想があったとされる。 |
| そのため、チベットに潜入を計るが、当時チベットは外国人の入国を禁じていたため、チベットに巡礼に行くモンゴル僧「ロブサン・サンボー」(チベット語で「美しい心」の意、誠意を忘れぬよう自戒の念を込め西川自らが命名した)と身を偽って内蒙古を発ち、寧夏、甘粛、青海を巡って、1年10ヶ月に及ぶ単独行の後、1945年にチベットの都ラサに潜入することに成功する。 |
| この潜行の間、外務省への報告は、当初現地の協力者に靴に縫い込むなどして運ばせていたが、現地人に迷惑を掛けたくないとの思いからこの方法を途中で止め、その後は、日本に帰国するまでの膨大な地理情報・見聞・行動記録を、全て自分の頭に記憶していった。 |
| その後、日本の敗戦を知るも、地誌と地図を作成する任務を放棄せず、外務省からは送金も援助も無い孤立無援のまま続行する。 |
| モンゴル僧としてデプン寺に入り、1年間にわたって本格的な仏教修行と、猛烈な語学の学習を行い、蒙古人ラマとしての信頼を獲得し、ようやく平穏な時を持つ。 |
| しかし、興亜義塾の先輩である情報部員木村肥佐生と、秘境西康省踏査の協力を約し、ラサを発ち、再び修行僧や商人と身を偽って、ブータン、西康、シッキム、インド、ネパール各地を潜行する。 |
| その後、ビルマに潜入する計画であったが、1949年、インドで日本人の密告により逮捕され、翌年帰国する。 |
| その頃、西川は潜行を始めた1943年の時点で、行方不明者として戸籍から抹消されていたため、生家では既に死んだものと諦めていたという。 |
| 帰国して1ヶ月も経たない頃、西川はGHQから不意の出頭命令を受ける。 |
| しかし、東京に到着した西川は、GHQに向かわず、先に外務省を訪れた。 |
| 各地域の調査報告を求められたら協力するつもりであったからである。 |
| ところが、外務省は情報の宝庫のような西川に無関心で相手にしなかった。 |
| それに対し、GHQは西川からの情報収集のために一部屋をあてがい、1年間にわたって、西川から西域潜行での情報を詳細に聴取している。 |
| その聴取は凄まじいもので、日曜以外毎日午前9時から午後4時まで、日系通訳と部屋にこもり、質疑応答が繰り返され記録されていった。 |
| 昼食も部屋で食べ、用便以外はここから出ることも、通訳とむだ口を交わすこともなかった。 |
| この見返りとして、GHQは当時の金額で一日当り千円を支払っている(この年の大卒初任給は5千円程である)。 |
| また、登山家西堀栄三郎は、1952年に初めてネパールに入国するにあたり、数度に渡って西川を自宅に招き、チベットやネパールなどの現地情報を収集している。 |
| その後、盛岡市で理美容材卸業を営み、亡くなるまで元旦以外は休まず働き続けたという。 |
| 2008年2月7日、肺炎のため盛岡市内の病院において死去。 |
著作
| 『秘境西域八年の潜行』 (上・下・別巻、芙蓉書房 1967年、新版1978年) 中公文庫上中下巻 1990年/抄版-中公文庫BIBLIO、2001年。 |
| 8年にわたる西域・チベット・インド潜行体験を綴っている。 |
文献資料
| 『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』 (新宿書房、2003年)。 |
| 2001年12月、西川一三・山口瑞鳳・金子民雄他を招き催された「日本人チベット行百年記念フォーラム」を再構成し、加えて解説・論考を所収。 |
映像資料
| 『秘境西域八年の潜行』を基に、1988年11月からTBSで4回に亘りドキュメント番組『新世界紀行、スゴイ日本人がいた!遥かなる秘境西域6000キロ大探険』が放映された。 |
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1936年
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福岡県中学修猷館を卒業後、南満州鉄道(満鉄... |
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1943年
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同塾を卒業後、駐蒙古大使館調査部情報部員と... |
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