| 秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。 |
| 佐藤氏は義清の曽祖父公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。 |
| 16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で後にもと主家の実能や公能と親交を結ぶこととなる。 |
| 保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。 |
| 和歌と故実に通じた人物として知られていたが、同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。 |
| その動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。 |
| 近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。 |
| この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。 |
| しかしこれは後代の創作であるが、1988年『西行』で白洲正子が、待賢門院への失恋による出家説を唱え、90年、瀬戸内寂聴が連載を開始した『白道』で続き、91年に辻邦生が連載を始めた『西行花伝』で踏襲したもので、2008年三田誠広も書いている。 |
| また同書で瀬戸内は、美福門院説もあるとしているが、典拠不明である。 |
| 五味文彦『院政期社会の研究』(1984)では恋の相手を上西門院に擬しているが、根拠薄弱である。 |
| 他にも、西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」作者不明、二巻現存。 |
| うち、一巻は、阿波蜂須賀家に伝来し、2004年に閉館した萬野美術館に所蔵されていたでは親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。 |
| 出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみしばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。 |
| 讃岐国に旧主崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えらえ、これは後代上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。 |
| なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。 |
| また特に晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。 |
| 年次に従って言えば、出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。 |
| 久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。 |
| このとき善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。 |
| 後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。 |
| 文治2年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。 |
| 建久元年(1190年)にこの地で入寂した。 |
| かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した。 |
| 西行の弟子とされた西住(さいじゅう)は晩年現在の山深い石川県加賀市山中温泉西住町に辿り着き住み着いたと伝えられ、その地の名となったとされ、昭和30年4月1日以前は江沼郡東谷奥村であった。 |
| 西住の墓とされる石碑がある。 |
| また加賀市八日市町には「都もどり地蔵」の石碑があり、この地で西行と別れたとの伝承がある。 |
| 西住の地の墓には建久4年3月建立と刻まれ、並ぶ別の墓は1954年(昭和29年)3月建立、「西住霊碑」「西住法師の元俗名は、源次郎兵衛なり...西行が西住を従え北国行脚の際、文治4年8月遂に寂す。 |
| 是よりこの地を西住と称す。 |
| ...」と刻まれる。 |