| 1988年、多方面にわたる音楽活動の成功を背景に、デビュー以来の所属レコード会社のなかに私設レーベル「オーン」を作り、自身の歌唱によるオリジナル作品のほかに、前述のNOBU CAINEや自らの名義および関連アーティストのインストルメンタル作品を“サマー・メディスン”シリーズとしてトータル的にプロデュースを手掛けていく第1弾は4月21日に、その年の2月5日に発表した自身のアルバム『BeforeTheDaylight〜isthemostdarknessmomentinaday』からリミックスした12インチシングル二枚とそれを統合したゴールドCDによる企画盤『VOICESFROMTHEDAYLIGHT~GOLD12inchItems』ではあるが、自身以外の他アーティストとしては以前から角松の自身名義の作品やプロデュース作品に多数参加し、ブラス編曲も手掛けるスタジオ・ミュージシャンのトランペッター・数原晋を中心に結成されたビッグ・バンド、「TOKYOENSEMBLELAB」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)が実質的な第1弾。 |
| デビュー・アルバムでもある『BREATHfromTHESEASON』(1988年7月21日発売)に角松はプロデュースの他に、先行でシングルカットされた「LADYOCEAN」などの楽曲提供と演奏にも参加。 |
| ゆえに角松色は強く、絶頂期の作品だけに成功を収めた。 |
| なお、オーン・レーベルの名義による作品は1994年までリリースされることになり、その後は同じレコード会社内に新たに作った私設レーベル「iDEAK」に引き継がれる。 |
| 充実した活動を行っていったが、1990年代初頭の作品から徐々に内省的な作品が増え、インタビューでも思想的・哲学的な内容の受け答えが多くなっていった。 |
| そして、自身の音楽に対する絶望感を訴え、1993年の日本武道館公演をもって歌手活動の「凍結」を宣言し、休止してしまうFINALCONCERTTOUR公演のMCで、「確かに非常にプライベートな事も引き金の1つにはなっている」と、歌手活動から撤退する理由として、(当時の)妻との離婚や女性関係での離別も一因であることを暗に認めているが、一方で当時、自らの歌唱についても行き詰まりを感じていたことをWEB掲載のインタビュー記事で吐露しており(GuitarLabo『角松敏生さんインタビューVol.1』)、公私に渡り(精神面も含めて)限界であった事が窺える。 |
| ちなみに同公演が収録されたビデオ映像(『TOSHIKIKADOMATSU1993・1・27FINALCONCERTTOURVol.2』)には観客の「ガタガタ言ってないで、続けりゃいいんだよ!」の野次(…というより、継続を望むファンならではの激励に近いもの)に動揺・激昂。 |
| 苛立ちの余りモニタースピーカーを蹴りつけ、「ふざけんな、コノヤロー」と叫び威嚇する姿も映されている。 |
| 一時期は音楽業界からの引退も考えたが、所属事務所の説得で“歌手活動以外の音楽活動をしていく”というかたちで音楽業界に残ることを決断。 |
| 休止直後は、前述の武道館公演のビデオ編集、休止後初のアルバムとなったベスト・アルバム『1981-1987』では2枚組20曲中14曲に新たに手を加えるなど制作作業に没頭。 |
| また、バックバンドのキーボーディストの友成好宏角松のバックバンドのメンバーのなかでは一番の古参で、1981年にデビュー直前の逗子のレストランで行われたプロモーション・ライブにも参加していた。 |
| 80年代後半から角松はバックバンドのメンバーに対して恩返しの意味合いもかねて、オーン・レーベルと“角松敏生プロデュース”という自身のネームバリューを使ってメンバーらのソロや在籍グループのアルバムを出していたが、奇しくも一番古い付き合いの友成のが最後となった。 |
| のソロアルバム『NATURALSIGN』、同ギタリストの浅野祥之浅野は杏里のバックバンド、“スプリット・ココナッツ”に在籍していて、1982年に杏里と知り合う角松とはその時からの仲。 |
| 1988年、杏里のバックバンドでの活動に迷いを感じていた浅野はそこを離脱し、角松のバックバンドのギタリスト選考オーディションを経て加入。 |
| らが参加していたフュージョン系バンド、空と海と風と…のセカンド・アルバム『空と海と風と…2』、女性アーティストでは米光美保のアルバムを2作連続フルプロデュース米光と同じ東京パフォーマンスドールに在籍していた篠原涼子のほうは同時期に小室哲哉によるプロデュースを受けていて、篠原涼子witht.komuro名義による「恋しさとせつなさと心強さと」でオリコンチャート1位、200万枚のヒットを出す。 |
| していくなど、他アーティストへの楽曲提供やプロデュース業も引き続き行い、休止前よりも多忙になっていた。 |
| 1995年、それまでの私設レーベル「オーン」に代わり、「iDEAK」を立ち上げるに至る。 |
| 同時期、小室哲哉によるプロデューサー・ブームに便乗しての新人ボーカリスト発掘プロジェクト、VOCALANDを立ち上げる。 |
| 仕掛けたのは、起業する前から角松のファンだったという松浦勝人で、氏のレコード会社のエイベックスで展開する。 |
| それを受けて角松用にエイベックスのなかでavexideakというレーベルが作られるも、エイベックス側の会社組織再編の影響を受け、1997年を以て終わる。 |
| こうした多忙な音楽プロデュース業をこなしていくなかで、活動凍結前から考案していたという自らの存在を変名(長万部太郎=おしゃまんべ・たろう)で隠したAGHARTA(アガルタ)というバンド・プロジェクトを始める。 |
| 角松自身でヴォーカルをとるなどしていたが、“角松敏生”のキャリアとは全く違う音楽性であったことで、歌手活動凍結宣言は依然として貫かれた中での活動となった。 |
| しかし、1995年、そのインディーズからのアルバム発売にあたって“角松敏生”の名が出てしまったため、即完売になるも、それは角松ファンに行き渡っただけで新たなファン層の開拓計画は失敗に終わる。 |
| なお、この閉会式は天皇・皇后が観覧していた「天覧演奏」となった。 |