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垂仁天皇
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日-垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日-垂仁天皇99年7月14日)。活目入彦五十狭茅... |
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狭穂姫命
母
記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇... |
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崇神天皇
『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日)-同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』で... |
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五十瓊敷入彦命
記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。垂仁天皇の第2皇子(第1皇子は垂仁天皇と狭穂姫の子、誉津別命(ほむつわけのみこと))。五十瓊敷命、印色入日子... |
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狭穂彦王
記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王。彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日... |
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景行天皇
『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日(71年8月24日)-同60年11月7日(130年12月24日))。和風諡号は大足彦忍代別天皇(... |
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日葉酢媛命
それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓... |
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曙立王
『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気... |
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開化天皇
『古事記』『日本書紀』に記される第9代天皇(在位:孝元天皇57年(紀元前158年)11月12日-開化天皇60年4月9日(紀元前98年5月23日))。稚日本根子彦大日日... |
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彦坐王
記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇... |
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応神天皇
第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけの... |
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ヤマトタケル
記紀に登場する皇子である。ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代... |
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木花咲耶姫
思いもしておりませんでした!!
前にも紹介したとおり、この品種は三姉妹で、母が‘月の兎’、父が‘大麗錦’という交配から生まれた性質の全く異なる3品種です。... |
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菟上王
kotobank > 菟上王とは 菟上王 【うなかみのおう】 1件の用語解説(菟上王で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 菟上王 う... |
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仲哀天皇
『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日(192年2月11日)-同9年2月6日(200年3月8日))。足仲彦天皇(たらしなかつひこの... |
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武渟川別
タケヌナカワワケ、タケヌナカワワケノミコトは『日本書紀』では武渟川別、『古事記』では建沼河別命と表記される、記紀に登場する人物。武渟川別命。四道将... |
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胆武別命
胆武別命 とは - コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus 胆武別命 の用語解説 - 記・紀にみえる垂仁(すいにん) 天皇の皇子。 母は山背(やましろ)(京都府... |
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丹波道主王
記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では丹波道主王、丹波道主命、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王。四道将軍のひとりで、丹波に派遣されたと... |
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倭彦命
記紀伝承上の皇族(王族)。崇神天皇の第三皇子。母は御間城姫。垂仁天皇の同母弟に当たる。倭日子命(古事記)、倭彦王子(続日本紀)とも。『日本書紀』に... |
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仁徳天皇
日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)-同87年1月16日(399年2月7日))。古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦394年、仁... |
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プロフィール
誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)は、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。 垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の 狭穂姫命(さほひめのみこと。 彦坐王の女)。
出生
| 名の由来を記では稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。 |
| 母の狭穂姫命はその兄狭穂彦の興した叛乱(狭穂毘古の叛乱)の際に自殺。 |
| 紀では叛乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは記に同じ。 |
| 火中出産は木花咲耶姫の誓約に繋がるとの指摘がある。 |
| 誉津別皇子は父天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。 |
言葉を発するまで
| 『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。 |
| 天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。 |
| 湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。 |
| ここに鳥取部、鳥飼部、誉津部を設けたとある。 |
| 一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。 |
| 天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。 |
| あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。 |
| 鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。 |
| しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。 |
| ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。 |
| そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。 |
| 天皇は皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。 |
| その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。 |
| すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。 |
| 天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。 |
| また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。 |
| さらに、『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。 |
| それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。 |
| そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。 |
| 建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。 |
| すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。 |
| 多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天ミカ津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。 |
| これらの話は神話研究では、記紀でのスサノオが大人になっても泣いてばかりであったことや、また『出雲国風土記』でのアジスキタカヒコネが口が利けなかったという神話と比較されている。 |
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誉津別命さんについてのひとこと紹介
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