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つながりの強いひと
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孫権
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。... |
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諸葛瑾
中国後漢末期から三国時代の呉の政治家・武将。字は子瑜。琅邪郡陽県の出身。 |
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諸葛亮
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建... |
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陸遜
後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸... |
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姜維
中国三国時代の魏の人物、後に蜀漢の武将。字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。父は姜冏。 |
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陸抗
中国三国時代の武将。陸遜の子(次男)。母は孫策の娘。字は幼節。妻は張承の娘で諸葛恪の姪。子は陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲・陸耽。『三国志』の呉志「... |
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孫策
孫策(そんさく、175年–200年)は中国の後漢末の武将。字は伯符(はくふ)。諡は長沙桓王。 |
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孫峻
中国三国時代の武将・政治家。字は子遠。呉の皇族である孫氏の一族。孫堅の弟の孫静の曾孫。祖父は孫暠、父は孫恭。従弟に孫&32157;。『三国志』呉志に伝があ... |
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諸葛喬
諸葛喬(しょかつきょう、204年-228年)は呉の将諸葛瑾の次男。蜀漢の武将。字は初め、仲慎、後に叔父の諸葛亮の養子となった時に伯松と改めた。諸葛攀の父... |
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文欽
中国、三国時代の武将。字は仲若。父は文稷。子は文鴦・文虎。譙国譙県出身。『三国志』魏志「毋丘倹伝」とそれが引く『魏書』の他、魏志・呉志の各所に記録... |
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司馬師
中国三国時代魏の武将、政治家。字は子元。廟号は世宗、贈号は景帝。司馬懿の長子で、司馬昭・司馬幹の同母兄。生母は張春華(贈穆皇后)。 |
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凌統
後漢末期の武将。字は公績(こうせき)。子に凌烈と凌封がいる。 |
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満寵
後漢末期から三国時代魏の武将、政治家。字は伯寧。満偉、満炳の父。満長武、満奮の祖父。『三国志』魏志に伝がある。 |
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張昭
中国の後漢・三国時代呉の政治家。字は子布。諡は文侯。子に張承・張休・他一名。孫に張震、曾孫に張&38355;(『晋書』(巻七十六列伝第四十六)「張&38355;... |
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孫登
孫登(そんとう、209年-241年)は三国時代の人物。呉の初代皇帝孫権の長男で呉の皇太子。孫璠、孫英、孫希の父。字は子高。妻は周瑜の娘。 |
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諸葛誕
中国三国時代に魏に仕えた政治家・武将である。字は公休。琅邪郡陽都県の出身で、諸葛亮の族弟(いとこもしくは同世代の親族)にあたる。実際は諸葛瑾、諸葛... |
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蒋欽
中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は公奕。九江郡寿春の人。子は蒋壱・蒋休。 |
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孫堅
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。 |
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劉曄
中国、後漢末から三国時代にかけての政治家。魏の重臣。家系は劉氏。字は子揚。淮南郡成悳県(安徽省寿春県)の人。後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延... |
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諸葛尚
中国の三国時代末期の軍人。蜀(蜀漢)に仕えた。蜀の丞相諸葛亮の孫で諸葛瞻の長男。母は諸葛瞻が17歳のときに娶ったという記録がある劉禅の娘か。263年、魏... |
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プロフィール
諸葛恪(しょかつかく、203年-253年)は中国の三国時代の政治家。呉に仕えた。字は元遜。 諸葛瑾の長男で、蜀(蜀漢)の丞相の 諸葛亮の甥にあたる。弟に 諸葛喬・諸葛融。子は諸葛綽・諸葛竦・諸葛建。
孫権時代
| 若い頃から機知と才気に長け、その才能を発揮していた。 |
| 一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きだった。 |
| 逸話として、宴の最中に引き出された驢馬の額に、孫権が戯れて「諸葛子瑜」と書いた(諸葛瑾は面長であったとされる)ことがあった。 |
| 一座の者は大笑いしたが、父を馬鹿にされて面白くない幼少の諸葛恪は、その驢馬の文字の下に「之驢」と書き加えた(諸葛瑾の驢馬という意味にした)。 |
| 孫権はじめ一座の者は、その機転の良さに舌を巻きその驢馬は諸葛瑾に与えられた。 |
| 他にも正史には彼の幼少時代の才気煥発さを示すエピソードが多く載せられている。 |
| 一方で、その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。 |
| 家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。 |
| 諸葛亮も陸遜に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしろ」と窘めている。 |
| また諸葛恪は張休・顧譚・陳表とともに皇太子の孫登の側近となり、諸葛恪ら四人は孫登の四友と呼ばれた。 |
| 諸葛恪は「丹陽郡は山が険しく、住民の多くは勇敢なのですが、丹陽郡の奥地には不服住民(山越)が多いです。 |
| 自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます。 |
| 」と上申した。 |
| 234年、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、陳表・顧承らとともに山越の討伐を命じられる。 |
| 諸葛恪は策略を使って、あまり戦うことなく、3年で山越を帰順させ、4万人以上の山越兵を手に入れる事に成功した諸葛恪とともに山越を討伐した顧承は諸葛恪とは別に8000人の山越兵を徴兵し、陳表は1万人以上の山越兵を徴兵した。 |
| その後も魏との戦いで功績を挙げ、246年に大将軍に任ぜられた。 |
| 皇太子の孫登が死去すると、孫和が皇太子となった。 |
| しかし、孫和と孫覇との間で継承争いが起き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。 |
| 諸葛恪は孫和を支持したが、諸葛恪の長男の諸葛綽は孫覇を支持したようである。 |
| 結局、孫和は太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇は処刑され、孫亮が皇太子となった(二宮事件)。 |
| 孫権はこの事について諸葛恪に諸葛綽の再教育を命じた。 |
| 諸葛恪は諸葛綽を毒殺した。 |
| 251年、皇太子の孫亮がまだ幼かったので、諸葛恪は太子太傅に任ぜられた。 |
| 252年、孫権が危篤になると、孫弘・孫峻・滕胤・呂拠と共に後事を託された。 |
| 次の日、孫権は逝去し、孫亮が皇帝となった。 |
| 孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。 |
| これにより、その後の呉の実権は諸葛恪が握ることになる。 |
孫亮時代
| 諸葛恪は皇帝の孫亮の太傅となり、官吏を監察する校官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税を廃止したので、絶大な支持を受けた。 |
| 韋昭(韋曜)を推薦して太史令とし、『呉書』を編纂させた。 |
| 252年10月、諸葛恪は東興に大きな堤を造り、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。 |
| 同年12月、魏の胡遵・諸葛誕らは東興を攻め堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築き、浮橋を渡り堤の上に進軍し、堤の上に陣を張り、堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけた。 |
| そこで、諸葛恪は丁奉・留賛・呂拠・唐咨らを先鋒として魏軍を攻撃し、撃破した。 |
| 敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の朱異によって浮橋が壊されたので大混乱になり、魏軍は韓綜・桓嘉をはじめ数万人が戦死した(東興の戦い)。 |
| 呉はこの戦いで多大な牛馬や軍事物資を手に入れた。 |
| 諸葛恪は陽都侯に封ぜられ、揚州と荊州の牧に任ぜられ、国内の軍事全般の指揮を任されることになった。 |
| 『建康実録』によればこのとき丞相に昇進している。 |
| 253年、前年の戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は周りの諫めを無視して、大軍を率いて魏に侵攻し、4月、合肥新城を包囲した。 |
| 魏の毌丘倹・文欽は合肥新城の守将の張特とともにこれを防いだ。 |
| 諸葛恪の合肥新城包囲は100日に及んだが、攻め落とす事は出来ず、疫病が大流行し、非常に多くの兵が亡くなった。 |
| 同年7月、魏の太尉の司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退し、8月に呉に帰還した(合肥新城の戦い)。 |
| 諸葛恪はこの戦の失敗と相次ぐ独断専行のため人望を失ってしまう。 |
| そして同年10月、孫峻らのクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り諸葛恪と弟の諸葛融の一族は皆殺しにされてしまう。 |
| 諸葛恪の死体は葦のむしろに巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられた。 |
| 後に諸葛恪の元部下達が諸葛恪の遺体を回収して埋葬した。 |
| 諸葛恪の死後、諸葛恪の弟の諸葛喬の子で諸葛攀が陽都侯を継ぐものの早世したという。 |
評価
| 『三国志』の著者の陳寿は「諸葛恪は才気にあふれ、大きな展望をもって働く事ができ、国内の人々の賞賛を受けていたが、驕慢で狭量であったので身を滅ぼした。 |
| 」と評している。 |
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