| 赤眉軍はさらに更始軍を撃破して、華陰(弘農郡)に到達する。 |
| ここで、同年6月、赤眉軍は劉盆子を皇帝に擁立して、建世元年と号し、謝禄は右大司馬に任命されている。 |
| その後赤眉軍は、長安を攻め落として更始政権を滅ぼした。 |
| 捕虜とされた更始帝は、樊崇らによって処刑されそうになったが、謝禄は劉恭(劉盆子の兄)と共に助命を進言している。 |
| 辛うじて命を永らえた更始帝は、謝禄を頼って常にその側にあった。 |
| ところが、更始帝に兵変を仕掛けたことのある張卬は、更始帝からの報復を恐れ、何とか亡き者にしようとしていた。 |
| 張卬は、更始帝が他の将に奪われれば謝禄の身が危なくなる、などと唆し、ついに謝禄はこれに引っかかって、部下に命じて更始帝を絞殺してしまったのである。 |
| 赤眉軍の支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。 |
| 周辺勢力との戦いも続き、建世2年(26年)9月、逄安が赤眉軍の主力部隊を率いて杜陵(京兆尹)に駐屯していた延岑・李宝の討伐に向かったところ、光武帝(劉秀)の大司徒鄧禹が長安を急襲してきた。 |
| そこへ謝禄が急遽駆けつけ、長安城内での市街戦の末に、鄧禹を敗走させている。 |
| しかし、肝心の逄安が延岑・李宝に大敗し、赤眉軍の主力部隊は壊滅的打撃を受けた。 |
| その上、糧食がつきてしまったこともあり、同年12月、赤眉軍の諸将は東へ帰る決断をしたのである。 |