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つながりの強いひと
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加藤寛治
明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身、福井藩士・海軍大尉加藤直方の長男。子息・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。 |
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百武三郎
日本の海軍軍人、海軍大将、侍従長。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上唯一組の海軍大将兄弟である。 |
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鈴木貫太郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。海軍軍令部長(第8代)、枢密院副議長(第14代)、枢密院... |
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山本英輔
日本海軍の軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。 |
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岡田啓介
日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、逓信大臣(第37代... |
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永野修身
大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。帝国海軍の歴史上、海軍三長... |
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東郷平八郎
日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級位階勲等功級爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 |
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小林躋造
小林躋造(こばやしせいぞう、1877年(明治10年)10月1日-1962年(昭和37年)7月4日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。小磯國昭内閣の国務大臣。広島... |
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米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
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山梨勝之進
日本の海軍の軍人。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた、所謂条約派の1人... |
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吉松茂太郎
吉松茂太郎(よしまつしげたろう、安政6年1月7日(1859年2月9日)-昭和10年(1935年)1月2日)は日本の海軍軍人、海軍大将。名は「もたろう」と読む場合がある。 |
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大角岑生
大正~昭和期の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。愛知県出身で本籍は高知県。 |
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山下源太郎
明治-大正時代の日本海軍軍人。補職・位階・勲等・功級・爵位は、連合艦隊司令長官・海軍大将・正二位・勲一等・功三級・男爵。 |
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山本五十六
新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死す... |
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末次信正
日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、第1次近衛内閣の内務大臣。日本海軍を代表する作戦家の一人であり、連合艦隊司令長官として令名を謳われた。一... |
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安保清種
明治期から昭和期にかけての日本海軍軍人。海軍大将。濱口雄幸内閣の海軍大臣。佐賀県出身。男爵。 |
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三田村鳶魚
三田村鳶魚(みたむらえんぎょ、明治3年3月17日(1870年4月17日)-昭和27年(1952年)5月14日)は江戸文化・風俗の研究家である。本名は万次郎、後に玄龍。そ... |
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竹下勇
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。 |
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高橋三吉
大正から昭和期の日本海軍軍人。最終階級は海軍大将。岡山県出身で本籍は東京。 |
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古賀峯一
日本の海軍軍人。太平洋戦争において殉職した第28代連合艦隊司令長官である。最終階級は海軍大将。殉職後は特旨により元帥号を授与される。佐賀県西松浦郡出身。 |
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プロフィール
- 谷口尚真とは
- 略歴
- 人物
- 軍令部長
- 大佐以降の補職
- 参考文献
谷口尚真(たにぐちなおみ、明治3年3月17日(1870年4月17日)-昭和16年(1941年)10月30日)は、の日本の海軍の軍人。18代連合艦隊司令長官、14代軍令部長を務めた海軍大将。海軍良識派を代表した一人と言われる提督である。
略歴
| 父は旧広島藩士である。 |
| 1892年、海軍兵学校卒業(19期)。 |
| 同期に百武三郎がいる。 |
| 1894年、巡洋艦「高雄」に乗り込み日清戦争に従軍。 |
| 1902年、海軍大学校(甲種)卒業。 |
| 1904年、少佐に累進し軍令部参謀となり日露戦争の海軍作戦に参画。 |
| 1923年、海軍兵学校校長に就任、同校教育に情熱を注いだ。 |
| 1926年及び1929年、呉鎮守府司令長官。 |
| 同年、第18代連合艦隊司令長官に就任。 |
| 1930年、ロンドン海軍軍縮会議を巡って海軍が二分し始めた同年、海軍軍令部長に就任。 |
| 無条約派(艦隊派)が大勢を占め、青年将校や予備役将官らの反対を受ける中、条約派『海軍と日本』p165の谷口は、海軍部内の調整に努め批准実現に貢献した。 |
| しかし1933年、大角人事で予備役に編入された。 |
人物
| その謹厳な人柄から「海の乃木」とも称された。 |
| 第二艦隊司令長官時代、あまりの謹厳さに閉口した参謀長の米内光政が「河の水魚棲むほどの清さかな」と色紙に書いて進呈し、谷口も「(ご忠告)ありがとう」と笑って受け取ったという逸話がある『新版米内光政』第二章。 |
| しかし、米内は谷口の「米英と戦わず」の考えに共鳴し、谷口が予備役になった後の意志を受け継いだ。 |
| 谷口の葬儀の際「しばしおさらばです」と谷口の棺の前で膝をついて手を合わせた姿が非常に印象に残ったと長男の真が述べている。 |
| 兵学校長時代には教育参考館を設立している。 |
| 館内には戦死者の遺品のほか、「ビーグル号」の船体の一部など文化財も展示した。 |
| 著作に『大海軍発展秘史』がある。 |
| 妻は柳楢悦の娘で、長男と次男はともに海軍少佐である。 |
軍令部長
| 谷口は艦隊派の軍令部長・加藤寛治の後任である。 |
| 軍縮会議から帰国する財部彪は四面楚歌状態であったが、谷口は斎藤実とともにねぎらった。 |
| 軍令部長就任後満州事変が勃発したが、海軍は事前に情報を得ており、谷口は満州事変が日米戦争につながることを懸念して満州事変を起こしてはならないと反対した『異色の提督百武源吾』pp.54-55。 |
| 事変勃発後も大陸出兵を図る陸軍の動きに反対し、海軍艦艇の派遣を拒否している『海軍と日本』p91。 |
| こうした谷口の態度を加藤から聞かされていた元帥・東郷平八郎は、"谷口はなんでも弱い"と不満を抱き、谷口を面罵した『五人の海軍大臣』「及川古志郎」。 |
| 結局谷口は同様の考えであった次長・百武源吾とともに軍令部を追われることとなった。 |
大佐以降の補職
| 装甲巡洋艦・常磐艦長。 |
| 巡洋戦艦・生駒艦長。 |
| 軍令部第三班長。 |
| 馬公要港部司令官。 |
| 呉鎮守府司令長官。 |
| 第二艦隊司令長官。 |
| 連合艦隊兼第一艦隊司令長官。 |
参考文献
| 池田清『日本の海軍』中公新書。 |
| 『異色の提督百武源吾』同刊行会。 |
| 新名丈夫『沈黙の提督井上成美真実を語る』新人物文庫。 |
| 杉本健『海軍の昭和史』文芸春秋社。 |
| 実松譲『新版米内光政』光人社。 |
| 吉田俊雄『五人の海軍大臣』文春文庫。 |
| 外山操『陸海軍将官人事総覧海軍篇』芙蓉書房出版。 |
| 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会。 |
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1870年
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谷口 尚真(たにぐち なおみ、明治3年3月17日... |
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1892年
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海軍兵学校卒業(19期) |
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