| 動員担任官は上海派遣軍司令官(当時松井石根大将)であった。 |
| 11月2日動員完結が同軍司令官から、杉山陸軍大臣と参謀総長載仁親王大将へ報告された。 |
| 11月20日大本営設置。 |
| 12月1日大本営参謀総長載仁親王大将から次の奉勅命令が、松井石根、新中支那方面軍司令官へ伝宣された。 |
| 『大陸命第7号』「中支那方面軍戦闘序列」すなわち中支那方面軍の編成命令、『大陸命第8号』すなわち首都南京攻略命令である。 |
| この伝宣を受け、松井中支那方面軍司令官は麾下全軍へ南京進撃を命令した。 |
| 南京を防衛する蒋介石総統麾下中国軍の守備兵力は9万人、これに対して南京攻略戦に動員された日本軍攻撃兵力は12万人(戦時編制)であった |
| 南京攻略戦をおこなった軍司令官松井石根大将の中支那方面軍は、軍司令官朝香宮鳩彦王中将の上海派遣軍と、軍司令官柳川平助中将の第10軍との、2個軍で編成されていた。 |
| これに独立野戦重砲兵旅団や、他師団の支隊(歩兵旅団レベルで指揮官は少将)などが加えられた。 |
| 以下の氏名の次にある、○印はGHQによる谷寿夫逮捕時(昭和21年2月)の生存者で、×印は死去していた者である。 |
| 中支那方面軍司令官松井石根大将○参謀長塚田攻少将× 参謀副長武藤章大佐○。 |
| 上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王中将○参謀長飯沼守少将○ 参謀副長上村利道大佐○。 |
| 金沢第9師団長吉住良輔中将○ 参謀長中川広大佐○。 |
| 京都第16師団長中島今朝吾中将×(砲兵科) 参謀長中沢三夫大佐○。 |
| (以下略)。 |
| 第10軍司令官柳川平助中将×(騎兵科)参謀長田辺盛武少将○。 |
| 熊本第6師団長谷寿夫中将○ 参謀長下野一霍砲兵大佐○。 |
| (下野の谷逮捕時の生存は井上久士訳『南京事件資料集 2中国関係資料編』p297~306、で谷が証人として出頭許可を求めているので確認可能) |
| 宇都宮第114師団長末松茂治中将○ 参謀長磯田三郎砲兵大佐○。 |
| 久留米第18師団長牛島貞雄中将○。 |
| (砲兵や騎兵など兵科の記載がない者は歩兵科出身)。 |
| 12月7日、国家元首、中華民国総統・蒋介石は南京から脱出した。 |
| 9日松井石根軍司令官は、南京城内の数ケ所にへ降伏を勧告するビラを投下した。 |
| 松井石根軍司令官は南京城に残っていた南京防衛司令官・唐生智へ降伏を勧告したが応じなかった。 |
| 10日松井軍司令官は全軍へ南京城への総攻撃を命令し、13日これを占領した。 |
| 南京防衛司令官・唐生智は中国守備軍へ徹底抗戦を叫びつつも、自分自身は12日南京城から逃亡していた。 |
| 司令官・唐生智が徹底抗戦を叫んで逃亡したため、唐の下位の、南京に残った司令官は降伏文書調印が不可能になった。 |
| もしも唐生智が首都南京から逃亡せず、降伏文書に調印したならば、中国軍は整然と投降し、捕虜としての保護を受け、後の「南京事件」は起きなかったであろうという指摘がある。 |
| 日本軍高等指揮官が明治初期、陸軍大学校でプロイセン・ドイツ軍からの招聘教官メッケルなどから学んだ基本戦略は、早期での敵国戦闘力の殲滅と、これによる戦争終結であった。 |
| その伝統を引き継ぎ、松井軍司令官ら高等指揮官の戦略は早期に中国守備軍を殲滅し、戦争を終結させることで一貫していたと考えられる。 |
| そのため、司令官・唐生智が逃亡したため烏合の衆となった中国軍敗残兵・便衣兵へ松井軍司令官は掃討戦を遂行し、膨大な数の捕虜が生じた。 |
| 谷は南京軍事法廷で、南京事件を実行したのは、その上海派遣軍・朝香宮鳩彦王司令官麾下の、第16師団長・中島今朝吾中将だとした。 |
| 当時中島師団長の第16師団が南京城内の掃討を担当していた。 |