| 天正13年6月、秀吉は秀長を総大将として四国攻めを開始した。 |
| その際、忠澄は江村親俊とともに前線の阿波一宮城(徳島市一宮町)を守って奮戦した。 |
| 元親は周辺の地侍層にも一宮城防衛のために動員を発し、約9,000余騎が参集して籠城戦を戦った高橋(1996)p.162-163。 |
| 対する羽柴勢は、蜂須賀正勝、藤堂高虎、増田長盛、仙石秀久、戸田勝俊、一柳末安ら5万余4万余あるいは7万余ともいわれる。 |
| で城の東、北、西を包囲、一斉に鉄砲を発射し、再三城に攻め入ろうとするが、城内の士気は一向に衰えるようすがなく、戦闘は長期戦の様相を呈した。 |
| 軍記物『土佐物語』では、この戦闘を、。 |
| …大海の一滴にも当らぬ小勢なれども、本人江村孫左衛門、谷忠兵衛少もひるます大音挙げ、軍ハ勢の多少によらず、おくれを取り名を汚すな、引くな進めと諸士を励し駈廻る…寄手蜂のことく集り、昼夜十九日攻れども城中弱る気色なし。 |
| と描写している。 |
| 城側の猛烈な抵抗にあった秀長は、城中の水源を断ち、坑道をうがって城を物理的に掘り崩す作戦を立てたが、これは城方に多大な動揺をあたえ、守将親俊・忠澄の2人は開城を決意した。 |
| 一宮落城後、白地城へ戻った忠澄は、『南海治乱記』によれば、以下のように羽柴軍の兵力差や武器の質の差を説いて主君・元親に降伏するよう勧めた『高知県史』p.941-942。 |
| 上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。 |
| 兵糧も多くて心配することは少しもない。 |
| これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。 |
| 武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。 |
| 小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。 |
| 国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない『図説高知県の歴史』p.134における現代語訳。 |
| 重臣たちは降伏に反対していたが、やがて評議は降伏論に傾いた。 |
| これに対し『元親記』によれば、長宗我部元親は以下のように今後の戦略を述べた。 |
| 縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。 |
| 同書での元親はさらに、一度も決戦せずに降伏することは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すべきであると主張し、また降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、切腹を申し渡している小和田(2006)p.181。 |
| この言葉に一同、決戦を覚悟したが、忠澄は一歩も引かずに重臣たちを説き伏せ、最終的には家臣連名で元親に再考を願った。 |
| こうした忠澄らの説得を受けて、元親もついに折れ、7月25日付の羽柴秀長の停戦条件を呑んで降伏した。 |
| 忠澄は、四国平定後の天正14年(1586年)には、九州の役に参陣した。 |
| 豊後の戸次川の戦いにも従軍し、八木正信によって討ち取られた元親の嫡男長宗我部信親の遺骸を島津氏から受け取る使者として交戦中の新納忠元のもとへ赴いた。 |
| 戸次川で一敗地にまみれ、かろうじて伊予の日振島に逃れた元親の命令によるものであった信親戦死の報を聞いた元親は、悲憤のあまり単騎敵陣に乗り込もうとしたが、側近に制止されて思いとどまったといわれている。 |
| 忠元は、忠澄を丁重に遇して信親の戦死に涙を流して陳謝し新納忠元は、忠澄に対し「自分がその場にいたら、決して信親殿を討ち取ることはなかったであろう。 |
| これは神に誓って偽りではない。 |
| 戦の常とはいえ、まことに申し訳ないことをした。 |
| 元親殿の心中をお察しする」と述べたといわれる。 |
| 、信親の遺骸を火葬して、使僧まで同行させて忠澄を土佐の岡豊城に送り届けている。 |
| 九州から帰還ののちは、幡多郡中村城の城代となり、囚人を使役して入野浜に松の木を植栽させるなど地域一帯の行政を担当した。 |
| 慶長5年11月7日(西暦1600年12月12日)、土佐中村城で病死した。 |