| 地元の旧豊浦町立豊浦中学校(現:下関市立夢が丘中学校)には校庭に立派な土俵小屋があり、山本少年はそこで高校生らと混じって鍛えられ、地元の大会でも優秀な成績を修めていた。 |
| そのときの後輩には境川部屋の豊響(本名:門元隆太)がいる。 |
| 中学卒業後は誘いを受けた埼玉栄高等学校に進学し故郷を離れた。 |
| 埼玉栄高校では全国大会に出場して活躍し、学業では学年約1600人中一桁の成績を取るなど、文武共に優秀であった。 |
| その後日本大学に進学、入学当初からレギュラー格そのため白石や里山とは稽古したことがなかったそうである。 |
| で活躍するも、蜂窩織炎の悪化により1年で相撲部を退部。 |
| 一時は相撲を諦め、警備員や鳶職などアルバイト中心の学生生活を送っていた。 |
| 日大相撲部の同期には白石(現:白乃波)や里山がいる。 |
| 蜂窩織炎の状態が良化した頃、白石と里山の大相撲入りに触発され自身も再び相撲を志す。 |
| 大学を中退してアルバイト先の社長の紹介で開設されたばかりの錣山部屋に入門し、同じ山口県出身の放駒親方も彼が中学生の頃から目をつけていたというが、中学時代は「高校に進学する」ということであきらめ、高校時代は「大学に進学する」ということであきらめ、大学時代は「相撲を辞めた」ということであきらめたという。 |
| 2004年3月場所に前相撲から初土俵を踏んだ。 |
| この時新弟子入門期限間近の22歳11か月であった。 |
| 約3年相撲から離れていたこともあり、入門当初は母校でもある出稽古先の埼玉栄高校で、エースの澤井豪太郎(現:豪栄道)に歯が立たず、1年生の佐野マービン・リー・ジュニア(元:幕下大翔勇、現:マービンJr.)にさえ分が悪いなど苦労したこともあったが、その年の11月場所では三段目で全勝優勝を果たす。 |
| スピード出世で番付を上げ、翌2005年1月場所、初土俵から5場所で幕下に昇進。 |
| 幕下上位でも安定した成績を残し、同年11月場所には東幕下3枚目まで番付を上げ、5勝2敗と勝ち越し。 |
| 続く2006年1月場所で十両に昇進した。 |
| その場所も好調で東十両12枚目で10勝5敗と勝ち越し、翌3月場所も12勝3敗と惜しくも十両優勝を逃したが大勝。 |
| 5月場所、初土俵からおよそ2年で新入幕を果たした。 |
| 前相撲からの所要13場所での幕内昇進は旭富士(現:伊勢ヶ濱親方)、貴花田(後の貴乃花、現親方)、武蔵丸(現振分親方)の3横綱と並び、史上9位タイ(当時)の速さである。 |
| 豊真将の入幕は山口県出身力士としては35年ぶりである。 |
| そのため、地元旧豊浦町とそれを引き継いだ今の下関市はもちろん、山口県全体で応援をしている。 |
| NHK山口放送局のニュース番組では、場所中連日その日の取り組みの結果が、豊響ら他の郷土力士の分とともに伝えられ、特に「やまぐち845」では、トップ項目で扱われる日もある。 |
| 新入幕の場所で脚を傷め、また立ち合いに迷いが出たこともあって、入幕直後は下位でややもたついていたが、入幕4場所目の2006年11月場所は一躍成長を見せた場所になった。 |
| 初日に豊ノ島に敗れたが、その後は11日目まで10連勝で全勝の横綱朝青龍を追った。 |
| 12日目に初めての大関戦となる栃東との一番に敗れ2敗に後退したが、その先も崩れず、優勝はならなかったものの14日目まで朝青龍の優勝を引き伸ばした。 |
| 12勝3敗の優勝次点の成績と相撲の好内容が評価され、敢闘賞と技能賞を同時に受賞した。 |
| 初の上位戦となった2007年1月場所は、大関琴欧洲に土をつけたものの、7勝8敗と負け越した。 |
| 翌3月場所は、1月場所に続き、琴欧洲を始め幕内上位力士を相手に内容のいい相撲で好成績を残し、11勝4敗で2度目の技能賞を獲得した。 |
| ただ、初めての上位挑戦となった5月場所では5勝10敗と壁に当たった。 |
| 翌7月場所は、魁皇が途中休場したこともあって、後半戦上位と当てられて5連敗するも、前半戦の好調が幸いして勝ち越し(9勝6敗)、再び番付を上位に戻した。 |
| 翌9月場所は8勝7敗と勝ち越し、三役への昇進が確実と見られたが、11月場所での昇進は見送られた。 |
| 11月場所では新三役を狙う場所として期待されていたが、この場所を3勝12敗、翌2008年1月場所も4勝11敗と2場所連続で大負けを喫する。 |
| 後にこの不振は血中コレステロール値の異常とその投薬治療によるものであったことが明かされた。 |
| 投薬治療を食事療法に切り替えてからは、3月場所、5月場所、7月場所をいずれも9勝6敗と勝ち越している。 |
| しかしながらまだ治療前の勢いを取り戻すまでは至っていない。 |
| 同7月場所後、左手首を手術、術後の経過が思わしくないため、9月場所は西前頭二枚目の地位ながら自身初の休場(全休)となり、再出場の11月場所も負け越したが、幕尻に下がった2009年1月場所は11勝4敗をあげて、2度目の敢闘賞を受賞した。 |
| 2009年3月場所は東前頭7枚目。 |
| この場所は、序盤まで2勝3敗だったが、6日目からの9連勝で11勝4敗をあげて、2場所連続、3度目の敢闘賞を受賞し、新三役の可能性を残したが、5月場所は東前頭筆頭となった。 |
| この場所は初日から14連敗と苦しんだが、千秋楽の嘉風戦に勝利して1991年7月場所の板井以来となる15戦全敗は免れた。 |
| 取り組み後、豊真将は涙ぐみ、館内は大歓声に包まれた。 |
| 2010年5月場所で東前頭2枚目に番付を上げたが場所前に首を痛め、初日から1勝もできないまま7日目から休場した(7日目は不戦敗、0勝7敗8休)。 |
| 2010年7月場所では東前頭13枚目まで番付を下げたが、初日から10連勝し優勝争いに加わる。 |
| 14日目の徳瀬川戦に敗れるまで幕内優勝の可能性を残し、最終的には11勝4敗で4度目の敢闘賞を受賞した。 |
| 翌9月場所は東前頭2枚目で7勝8敗と負け越し。 |
| 2010年11月場所前には、深刻なアクシデントに見舞われた。 |
| 10月23日の秋巡業、尼崎場所で右足親指の傷口からばい菌が入り、30日に突然41度を超す高熱が出た。 |
| 病院に駆け込んだが、一時は意識を失うほどの重い症状で、生死をさまよう体験もした。 |
| 豊真将自身、「三途の川で、死んだじいちゃんが出てきた。 |
| あんなことは人生で初めてだった…」と語ったほど。 |
| 3日間高熱はひかなかったが奇跡的に完治。 |
| 場所前には出稽古ができるまでに回復した。 |
| 同年11月場所では東前頭3枚目で7勝8敗と負け越したが、2大関(琴欧洲・把瑠都)に土をつけた。 |
| なお、琴欧洲戦の勝利は2007年3月場所以来、把瑠都戦の勝利は2006年11月場所以来。 |