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つながりの強いひと
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角倉了以
戦国期の京都の豪商。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川... |
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三好吉房
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。尾張犬山城主。通称は弥助。後に三位法印とも称した。号は一路、または常閑や日海とも。官職は武蔵... |
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花押
署名の代わりに使用される記号・符号をいう。元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図... |
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豊臣秀頼
日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。天下人。豊臣秀吉の次男。母は側室の茶々(淀殿)。子は側室和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松... |
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三好康長
戦国時代の武将。三好長秀の子で、元長の弟。別名に康慶。笑巌(笑岩)(しょうがん)の号で知られる。 |
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山内一豊
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏の当主。父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原... |
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加藤清正
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後国熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。その後も各地を転戦し... |
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最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。出羽国の戦国大名・最上氏第11代当主。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて... |
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福島正則
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 |
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柴田勝家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。 |
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豊臣秀長
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の弟で、異父弟とも同父弟ともいわれている。秀吉の片腕として辣腕を奮い、内政および軍事の両面で... |
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前田利家
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生ま... |
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結城秀康
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家宗家初代。 |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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駒姫
最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室。別名、伊万(いま)。伊達政宗の従妹に当たる。彼女の名は御駒山からとられている。 |
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蒲生氏郷
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、ま... |
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淀殿
戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室。位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)お... |
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島津義久
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後... |
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菊亭晴季
戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。官位は従一位・右大臣。 |
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プロフィール
- 豊臣秀次とは
- 前半生
- 最期
- 秀次事件
- 粛清の理由
- 秀次事件の影響
- 秀次切腹の主な連座者
- 風評
- 人物
- 系譜
- 秀次の特殊な偏諱
- 関連作品
- 関連サイト
豊臣秀次(とよとみのひでつぐ、とよとみひでつぐ)/羽柴秀次(はしばひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてのの武将・大名・関白。 豊臣秀吉の姉・ 日秀の子で、秀吉の養子となる。通称は孫七郎(まごしちろう)。幼名は治兵衛(じへえ)。はじめ、戦国大名・三好氏の一族・ 三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名する。なお「 豊臣秀次」の読み方については、豊臣氏を参照のこと。
前半生
| 永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(当時は木下弥助)の長男として生まれる。 |
| 織田信長の浅井攻めに際し、宮部継潤に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。 |
| その後、信長が開始した四国攻めにおいて、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子として送り込まれ、三好信吉と名乗る。 |
| 天正10年(1582年)6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。 |
| 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げた。 |
| 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、このとき「中入り」のため三河国への別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興や森長可らを失い、命からがら敗走する。 |
| このため、秀吉から激しく叱責された。 |
| この時期、羽柴秀次と名乗る。 |
| 天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは秀長と共に副将をつとめ千石堀城の戦いで城を落とし、四国平定でも副将として3万を率いて軍功を挙げた。 |
| このため、近江国蒲生郡八幡山城(現在の近江八幡市)に43万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。 |
| 領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。 |
| これは田中吉政など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっており、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。 |
| 九州の役では京都の守りに残ったが、天正18年(1590年)の小田原の役にも参加し、山中城攻撃では大将となり城を半日で陥落させた。 |
| 戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。 |
| 天正20年(1592年)「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。 |
| 同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として舞兵庫の名が記されている。 |
| 天正19年(1591年)奥州に出兵し、葛西大崎一揆及び九戸政実の乱鎮圧においても武功を挙げた。 |
最期
| 天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。 |
| 秀次は11月には秀吉の養子となり、12月に関白に就任。 |
| 同時に豊臣氏の氏長者となった三鬼、10p。 |
| 関白就任後の秀次は聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。 |
| その後、唐入りに専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。 |
| しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。 |
| 秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、結局文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した。 |
| 以降、出家した元の関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた。 |
| 同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。 |
| 辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。 |
| 死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。 |
| 遺臣の多くは石田三成、前田利家、徳川家康らに仕えた。 |
秀次事件
| 200px|thumb|豊臣秀次像/瑞泉寺蔵。 |
| 秀次の下に殉死した玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守を配す。 |
| 文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられた。 |
| 7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤、富田一白(奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促した『太閤秀吉と豊臣一族』p.5。 |
| 7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった。 |
| 秀次は雀部重政の介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。 |
| 秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた『太閤秀吉と豊臣一族』p.6。 |
| そして、8月2日(9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。 |
| 約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。 |
| その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた(畜生塚)。 |
| なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。 |
| ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。 |
| 豊臣十丸の祖母北野松梅院は死を免れている。 |
| 直系の親族では、淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の後藤興義に預けられ、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその姉で梅小路家に嫁いでいた娘の同母姉妹も難を逃れている。 |
| この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺に残されている『太閤秀吉と豊臣一族』p.1。 |
粛清の理由
| 秀次粛清の理由において、次のような説が上げられている。 |
| 実子である秀頼の後継を確実なものとし、秀次の子孫を根絶やしにして直系継承を守るため。 |
| 秀頼誕生後から酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行説(→後述)。 |
| 秀頼の生母・淀殿と「近江派」の吏僚・石田三成らによる陰謀説(ただし、武功夜話によると、三成は秀次の無罪を主張していたという説もある)。 |
| 両者は秀吉に秀次の素行調査を命じられ秀吉に報告している。 |
| 淀殿が大野治長と密通していた事実を知り、逆にそれを知った淀殿が逆上し、秀吉に讒訴した。 |
| 菊亭晴季の娘(一ノ台・秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰された)を見初め、晴季と相談し秀吉に黙って継室としたが、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説川角太閤記。 |
秀次事件の影響
| どのような所業であれ、一度出家した者に切腹を要求する事自体当時としても考えられないことであった。 |
| それに輪をかけて切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本の倫理観と社会常識に照らし合わせても悪逆無道ともいえる仕置は、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。 |
| 藤木久志は政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深化を遂げたと評している藤木『織田・豊臣政権』『天下統一と朝鮮侵略』p.358。 |
| また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。 |
| 笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』。 |
| 秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。 |
| しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。 |
| ただしその一方、後継者が確定しないなかで秀吉が死去した場合、覇権を巡り秀頼と対立し豊臣家内の分裂を引き起こした可能性もある。 |
風評
| 事件直前の秀次は比叡山での鹿狩り秀次の鹿狩りが正親町天皇の喪中に行われたという説もある(『太閤秀吉と豊臣一族』p.7)、嗜好殺人などの非道行為(盲人を辻斬りにした)を繰り返したとの風評があり、「殺生関白」(「摂政関白」の韻に掛けた創作)の異名をとった『伴天連見聞録殺生関白行状記』。 |
人物
| 200px|thumb|八幡公園内に建つ豊臣秀次像。 |
| 秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原の役での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、そこそこの力量はあり、文武両道の人物だった。 |
| 秀次事件のとき、秀吉譜代の家臣である前野長康、さらには木村重茲(しげこれ)、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張して弁護していることから、秀次は諸大名から人望があったものと思われる。 |
| 秀次はキリシタンではないにも関わらず、宣教師からは穏やかで思慮深い性質であると賞賛の言葉をもらっている(ルイス・フロイス「日本史」など)。 |
| 武術については、疋田景兼より剣術と槍術を学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術を学んだとされ、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。 |
| 小田原の役後、奥州に赴いた秀次は中尊寺の大蔵経を収集し、これを持ち帰った。 |
関連作品
| 『新忍びの者』(1963年、大映、演:成田純一郎)。 |
| 『太閤記』(1965年、NHK大河ドラマ演:田村正和)。 |
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1568年
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豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房... |
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1585年
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従四位下右近衛権少将に叙任 |
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投票数
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豊臣秀次さんについてのひとこと紹介
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