| 政治手腕に優れ、友人の董允と共に劉備の嫡子劉禅の補佐を任され、舎人、庶子となり、劉禅が即位すると黄門侍郎に任命された『華陽国志』「劉後主志」によれば224年。 |
| 丞相諸葛亮にも厚く信頼され後の南征からの帰還後、低い序列であったにも関わらず特別に車に同乗を許したという逸話がある。 |
| 、諸葛亮の命を受けて呉に交渉に向かった時には、呉主孫権の傍らにあった諸葛恪・羊茞から舌鋒鋭く論争を挑まれるが、辞儀を乱さずに理に従って答えてついに屈せず、孫権から「君は幾許もせずに必ず蜀の中心人物になる」とその人物と才能を高く評価された『費禕別伝』に詳しい。 |
| 呉から帰国すると侍中に昇進し、その後北伐に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。 |
| 230年に中護軍となり231年に諸葛亮が李厳を罷免する際の上奏では、行中護軍・偏将軍として名を連ねている。 |
| 、後にまた司馬となった。 |
| その頃、幕営では常に将軍魏延と長史楊儀がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀は涙を流すという事態があった。 |
| 費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、ものの分別を二人に諭した。 |
| 力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕のとりなしがあってのことであった、と陳寿は綴っている。 |
| 一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚することになった際、両方の事件に費禕は関与した魏延伝、楊儀伝参照。 |
| その後は蔣琬と共に蜀漢を支える存在になり、後軍師を経て尚書令尚書令としての仕事ぶりについては、『費禕別伝』に詳細がある。 |
| となった。 |
| 北伐の再開を計画する蔣琬に反対したようである蔣琬伝参照。 |
| なお、後主伝の241年の記録には漢中で蔣琬と費禕が数ヶ月協議していたとある。 |
| 蔣琬の病が重くなった243年には大将軍・録尚書事に昇進した。 |
| 244年に魏が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、王平と協力して魏軍を破っている。 |
| 蔣琬が固辞した益州刺史も兼任するようになり、蔣琬の没後、248年より費禕が漢中に駐屯し、軍事・国政全てを担った。 |
| 姜維はこれより前の243年に蔣琬によって涼州刺史に任命され、247年には衛将軍・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在であった。 |
| 彼は大軍を動かして北伐を再開することを希望していたが、「丞相(諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず姜維伝の引く『漢晋春秋』に掲載。 |
| 、まず内政の安定を計ることを第一としていた。 |
| 251年、成都に一度帰還したが、成都に凶兆があるという言葉を受け、漢寿に駐屯していた。 |
| 252年には幕府の開設が許された。 |
| 253年、宴席でしたたかに酔ったところを、魏の降将である郭循魏側の記録によると「郭脩」とある。 |
| 当初は劉禅を狙っていたが、果たせなかったため、費禕が標的になった。 |
| に刺殺された。 |
| 敬侯と諡された。 |
| 費禕の死後、姜維と陳祗が国政を主導することとなるが、彼の後を継げる人物はおらず、また黄皓の台頭と連年の北伐により、蜀漢は衰退の一途をたどることとなった。 |
| 広元市元ハ区に墓所が残る。 |
| 地級文物保護単位。 |