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赤松政則
室町時代後期の武将、播磨・美作・備前の守護大名・戦国大名。 |
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浦上村宗
浦上村宗は備前・美作・播磨の戦国大名。浦上宗助の子(則宗の実子とする家系図も)。 |
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赤松晴政
日本の戦国時代の武将、大名。赤松氏の当主。赤松義村の子。赤松義祐、赤松則家、女子(赤松政秀妻)の父。才松丸。次郎。政村。政祐。従五位下。左京大夫。... |
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洞松院
戦国時代の女性。細川勝元の娘。細川政元の異母姉。赤松政則の妻(後室)。名は「めし」。「めし殿」「局(つぼね)殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。義... |
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浦上則宗
浦上則宗(うらがみのりむね)は室町時代の武将。浦上掃部の子。 |
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細川高国
戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落として自ら権力を握った... |
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細川政元
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名、管領。足利氏の庶流・細川氏当主。幕臣ながら将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ば... |
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足利義澄
室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日)-永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍足利義政の異母兄である堀越公方足利政知。はじ... |
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足利義稙
室町幕府第10代将軍。将軍在職は2つの時期に分かれており、一度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職する。約13... |
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宇喜多能家
戦国時代の武将。仮名は平左衛門尉、官位は和泉守を名乗る。宇喜多久家の子で、宇喜多興家の父、宇喜多直家の祖父。 |
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足利義晴
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年-1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。 |
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赤松義祐
播磨の戦国大名。赤松氏の当主。播磨置塩城城主。 |
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赤松政元
戦国時代の武将。赤松義村の子という。赤松氏の御一家衆七条殿の当主。上月城主。兄弟に赤松晴政がいる。子に正満、政範、政直、政茂、横山義祐などがいる。... |
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細川勝元
室町時代の武将・守護大名。管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。足利氏の支流で三管領の1つである細川氏嫡流・京兆家の当主。細川持之の子、政元の父。... |
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赤松満祐
室町時代の播磨・美作・備前の守護大名である。父は赤松義則。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6... |
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細川晴元
室町時代末期(戦国時代)の武将・戦国大名。細川氏本家京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺法... |
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永元
後漢の和帝劉肇(りゅうちょう)の治世に行われた最初の元号。89年-105年。永元17年は4月に改元されて元興元年とされた。元年:竇憲(とうけん)、北匈奴に大... |
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赤松則村
日本の鎌倉時代から南北朝時代の武将である。法名の円心でも知られている。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。赤松茂則の子。範資、貞範... |
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大内義興
大内義興(おおうちよしおき)は室町時代後期から戦国時代にかけての周防の戦国大名。大内氏の第30代当主。 |
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プロフィール
- 赤松義村とは
- 人物
- 幕府での政争
- 辞世の歌
- 関連項目
- 関連サイト
赤松義村(あかまつよしむら)は戦国時代の守護大名・戦国大名。
人物
| 室町幕府の播磨・備前・美作の守護大名である。 |
| 七条政資の子で赤松政則の養子。 |
| 生年は1470年・1472年・1490年・1494年などの説がありはっきりしない。 |
| 養父(岳父)・政則は嘉吉の乱で一時滅亡した赤松氏を再興した中興の英主であるが、男子に恵まれなかったので、義村がその婿養子となって跡を継いだ。 |
| 当主就任時はまだ幼少だったため、家老浦上則宗が権勢を振るった。 |
| それに反発した諸将との間で争いが起きるが、当時の幕府管領である細川政元がこれを仲裁している。 |
| 則宗や別所則治など政則時代からの有力家臣が世を去った後は、義母洞松院が義村の成人までの後見役を務めた。 |
幕府での政争
| 京の幕府で政元の死後、前将軍足利義材(義尹、義稙)と現将軍足利義澄との間で権力争いが起きると、赤松家は先代の政則の代より阿波細川家(細川澄元の実家)と縁が深かったためもあり、義澄側の味方をしたが、船岡山合戦で義澄が敗退した後は、将軍に返り咲いた足利義稙(義材、義尹)と和睦する一方で義澄の子亀王丸を引き取って養育したりするなど、中央への影響力を依然として保持した。 |
| 成人し親政するようになった義村は重臣浦上村宗・小寺則職の補佐を受ける一方で、奉行制を導入し大名権力の強化をもくろむものの、権力が制約されることを嫌った村宗達の反発を受け、1518年には、村宗は居城の備前三石城に退去してしまう。 |
| これに激怒した義村は1519年、則職らとともに軍を率いて備前・美作の村宗の根拠地を攻撃し、一時は優勢になったものの浦上氏を支持する国人達の抵抗や村宗配下の名将宇喜多能家のため敗北を重ね、守護赤松氏の権威は失墜し、逆に播磨への村宗の侵攻を許してしまう。 |
| 捕らえられた義村は隠居を余儀なくされ、その後何回か復権を図ったものの果たせず、最後は播磨の室津城に幽閉され、1521年、村宗の手により暗殺された。 |
| 家督は遺児の才末丸(のちの赤松晴政)が継ぎ、守護家としての赤松氏の名目上の存続は許されたが、赤松家はこののち衰退の一途をたどることになる。 |
| 名水播磨十水を定めたのはこの義村とされる。 |
辞世の歌
| 立よりて影もうつさし流ては 浮世を出る谷川の水。 |
| ''(たちよりてかげもうつさじ ながれては うきよをいずるたにがはのみず)''。 |
関連項目
| 常光寺(兵庫県加古川市神野町)(義村の墓とされる五輪塔が存在)。 |
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1518年
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村宗は居城の備前三石城に退去してしまう |
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赤松義村さんについてのひとこと紹介
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