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つながりの強いひと
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足利基氏
父
南北朝時代の武将。初代鎌倉公方。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男。母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。 |
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上杉憲春
南北朝時代の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵守護。山内上杉家出身。上杉憲顕の子で、憲将、憲賢、能憲、憲方、憲英、憲栄は兄弟。 |
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足利義満
足利義満(あしかがよしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。... |
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足利満兼
室町時代中期の武将。3代目の鎌倉公方(在位:応永5年(1398年)-同16年(1409年))である。 |
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上杉憲方
南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆・下野・安房守護。上杉憲顕の子で憲将、憲賢、能憲、憲春、憲英、憲栄は... |
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足利持氏
足利持氏(あしかがもちうじ)は室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在位:1409年-1439年)。足利満兼の子。 |
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小山義政
南北朝時代の下野国の武将。小山城主。藤原秀郷流小山氏の第11代当主。父は小山氏政。子に若犬丸がいる。小山義政の乱で知られる。 |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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上杉氏定
室町時代の武将。上杉氏の一族で扇谷上杉家当主。上杉顕定(扇谷上杉家)の養子。実父は上杉頼顕(小山田上杉家)で定重の兄。持定、持朝、娘(今川範政妻)... |
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足利満隆
足利満隆(あしかがみつたか)は室町時代の武将である。第2代鎌倉公方足利氏満の3男。 |
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足利直義
鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。河内源氏義国流、足利氏の嫡流・足利貞氏の3男。室町幕府初代将軍、足利尊氏の同母弟。足利将軍家の一門。世... |
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足利成氏
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年-1455年)、初代古河公方(1455年-1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就... |
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永徳
永徳(えいとく、1978年1月16日-)は日本の俳優。千葉県出身。ジャパンアクションエンタープライズ所属。旧芸名は大岩永徳(おおいわひさのり)。 |
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上杉憲顕
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。上野・越後・武蔵・安房守護。初代関東管領。山内上杉家の始祖。上杉憲房の子。弟に憲藤(犬懸上杉家... |
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足利義詮
南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。 |
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土岐頼康
土岐頼康(ときよりやす)は南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、美濃・尾張・伊勢守護。土岐氏の一族土岐頼清の長男で土岐頼貞の孫。頼雄、康貞... |
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足利満貞
足利満貞(あしかがみつさだ)は室町時代中期の武将。第2代鎌倉公方・足利氏満の4男。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。なお、『喜連川判鑑』及び『古河公方... |
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細川頼之
南北朝時代から室町時代初期にかけての武将、政治家。室町幕府管領。細川氏の本家京兆家の当主。幼名は弥九郎。はじめ武蔵守、後に相模守。足利氏の一門であ... |
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大内義弘
室町時代中期の周防国、長門国、石見国、和泉国、紀伊国の守護大名。 |
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プロフィール
生涯
| 貞治6年(1367年)4月、父基氏の死去をうけて、鎌倉公方となる。 |
| 公方となってすぐの貞治7年(1368年)1月に武蔵平一揆の乱が起こるが、10歳という幼少ながらみずから軍勢を率いて河越に出陣。 |
| 京都から引き返した関東管領上杉憲顕も加わって、同年6月17日には平一揆を鎮圧した。 |
| 憲顕の死後は憲顕の息子能憲と甥の朝房が関東管領に就任、2人の補佐を受けた。 |
| 能憲の死後は能憲の兄弟で関東管領を継いだ上杉憲春と共に宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成した。 |
| 康暦元年(1379年)、中央で幕府内部の抗争である康暦の政変が起こると、それに呼応して3代将軍足利義満に対して挙兵しようとしたが、憲春が自刃して諌めたために断念した。 |
| しかし、このことはやがて京都に伝わり、氏満は謝罪の使者を送るほかなかった。 |
| これを機に義満は氏満への圧迫を強め、氏満の教育係であった義堂周信を強引に招請し、義満と結ぶ新しい関東管領上杉憲方(憲春の兄弟)の圧迫もあってこれを認めざるを得なくなったのである。 |
| その後、氏満は関東の親幕府派や南朝方の武家などを攻撃して自己の権力拡大に結び付ける路線を取った。 |
| すなわち、新田氏や小山氏、小田氏、田村庄司氏などを次々と討伐していったのである。 |
| 特に小山氏の乱においては北関東有数の名門武家であった小山氏を徹底的に滅ぼして、上杉氏や関東の有力武家たちに対する牽制とした。 |
| 明徳3年(1392年)、氏満は義満から陸奥や出羽の統治も任された。 |
| その背景には伊達氏や白河結城氏など有力武家を奥州管領が十分に統率できなかったことや前年に発生した明徳の乱を受けて鎌倉府の離反を阻止する意図があったとみられている。 |
| だが、これによって義満と氏満、あるいは鎌倉の鎌倉府と京都の将軍家と対立が解消されることはなく、氏満の子満兼、孫の持氏と代を重ねるごとに拡大し、両家の本格的な抗争につながっていったのである。 |
| 応永5年(1398年)に病没。 |
| 早世のようにも見えるが、父基氏が没した1367年から31年にわたって鎌倉公方を務めており、在任期間は歴代の鎌倉公方のなかでは最長である鎌倉公方の後身である古河公方も含めると足利成氏の42年が最長となる。 |
官歴
| 1367年(正平22年/貞治6年)5月29日、鎌倉公方に就任。 |
| 1369年(正平24年/応安2年)1月21日、元服し、氏満と名乗る。 |
| 1372年(文中元年/応安5年)11月6日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。 |
| 1380年(天授6年/康暦2年)2月、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。 |
| 1391年(元中8年/明徳2年)2月、陸奥出羽両国公方兼務。 |
| 1392年(元中9年/明徳3年)3月、従三位に昇叙。 |
関連書籍
| 田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』吉川弘文館、2002年。 |
| 小国浩寿『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館、2001年。 |
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1367年
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父基氏の死去をうけて、鎌倉公方となる |
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1379年
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中央で幕府内部の抗争である康暦の政変が起こ... |
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