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足利満直
足利満直(あしかがみつなお)は室町時代中期の武将で篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。第2代鎌倉公方足利氏満の次男。第3代公方足利満兼は兄。 |
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足利氏満
足利氏満(あしかがうじみつ)は南北朝時代の第2代鎌倉公方である(在位:1367年-1398年)。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。 |
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足利満兼
室町時代中期の武将。3代目の鎌倉公方(在位:応永5年(1398年)-同16年(1409年))である。 |
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足利満隆
足利満隆(あしかがみつたか)は室町時代の武将である。第2代鎌倉公方足利氏満の3男。 |
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足利持氏
足利持氏(あしかがもちうじ)は室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在位:1409年-1439年)。足利満兼の子。 |
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古河公方
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉... |
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足利義視
室町時代中期から後期にかけての足利一族。一時的に将軍継嗣になったこともある。 |
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足利満詮
足利満詮(あしかがみつあきら)は南北朝時代・室町時代の武将。室町幕府第二代将軍・足利義詮の四男。母は紀良子。三代将軍足利義満の同母弟にあたる。 |
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足利成氏
室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年-1455年)、初代古河公方(1455年-1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就... |
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足利義明
足利義明(あしかがよしあき)は室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。 |
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上杉憲実
室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。越後守護上杉房方の3男。子に憲忠、房顕、周清(周清の子に上杉憲房)、法興、周泰ほか。猶... |
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足利義満
足利義満(あしかがよしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年-1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。... |
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足利基氏
南北朝時代の武将。初代鎌倉公方。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男。母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。 |
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足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直... |
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上杉禅秀
室町時代前期の武将、守護大名。関東管領、上総・武蔵守護。禅秀は出家名。犬懸上杉家出身。上杉朝宗の子。妻は武田信春の娘。憲方、憲秋、憲春、持房、快尊... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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佐竹義憲
佐竹義憲(さたけよしのり、元亀元年(1570年)-没年不詳))は安土桃山時代、江戸時代の武将。佐竹義斯の嫡男。又七郎、左衛門督。北義憲とも。佐竹義久の後... |
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足利政氏
戦国時代の武将。2代目古河公方(在位:1489年-1512年)。父は足利成氏。母は簗田直助の娘(伝心院)。 |
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一色直兼
一色直兼(いっしきなおかね、生年不明-永享10年11月7日(1438年12月13日))は室町時代の武将。一色氏兼の子。官途名は宮内大輔。関東一色氏の嫡流で鎌倉公... |
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上杉氏憲
戦国時代から江戸時代の武将。深谷上杉家の一族で、後北条氏の家臣。上杉憲盛の子。母は太田全鑑の娘。長尾景仲の仍孫に当たる。正室は北条氏繁の娘(氏政の... |
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プロフィール
足利満貞(あしかがみつさだ)は室町時代中期の武将。第2代鎌倉公方・ 足利氏満の4男。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。なお、『喜連川判鑑』及び『 古河公方系図』では満貞を「篠川殿」、兄の満直を「稲村殿」としているが、『喜連川判鑑』の永享10年11月の項目では「稲村満貞」と呼称されている他、異説として『 古河公方系図』に満直を「篠川殿」、満貞を「稲村殿」とする説も併記されており、兄と混同する資料が見られる。
経歴
| 奥州管領の衰退や小山氏の乱に対応するため、明徳2年(1391年)陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となった。 |
| だが、奥羽両国には有力な武士が存在しており、鎌倉府の統治も順調ではなかった。 |
| 応永5年(1398年)の氏満の急死をきっかけに鎌倉府の奥州統治体制の再編成を迫られ、翌応永6年(1399年)に新しい鎌倉公方となった兄・満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村(現、福島県須賀川市)に下向。 |
| 満貞は氏満死去の前の段階では元服前であった(『奥州余目記録』)が、翌年の下向時には直ちに御判御教書を発給しているため、この前後に元服したと推定される。 |
| 鎌倉公方家など当時の武家の元服が15歳前後に行われていたため、満貞は至徳2年/元中2年(1385年)ごろの誕生であると推測されている。 |
| また同時に満直も陸奥国安積郡篠川に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれる。 |
| 両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗するのが主要任務だったと考えられる。 |
| 岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白川氏などと連携してたびたび伊達氏と衝突している。 |
| 鎌倉公方が持氏に代替わりするとまず鎌倉で持氏を補佐していた満隆が謀反を起こして滅ぼされ(上杉禅秀の乱)、続いて満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつき鎌倉公方の地位への野望を持ち、加えて持氏も満直らに対抗するために奥州の直接統治(「関東御成敗」)を目指すようになり、満貞の立場はますます弱体化して稲村公方は鎌倉府と奥州諸将の間の取次機関に過ぎなくなった。 |
| それに伴い応永31年(1424年)11月、満貞は鎌倉に入った。 |
| 持氏は公方家伝来の宝物を譲るなど満貞を歓待した。 |
| この時をもって、満貞が稲村から鎌倉へと退去して稲村公方は事実上終焉したとする説が通説であるが、満貞の奥州諸将に対する命令文書の下限は正長2年(1429年)であり、応永31年以後に奥州に戻りこの時期まで活動していた可能性もある。 |
| とは言え、同年以後の満貞の奥州での活動は確認できず、正長年間以後は鎌倉に滞在して関東管領上杉憲実に対抗する形で持氏を補佐したとみられている。 |
| 永享10年(1438年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、翌年2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害している。 |
| ちなみに「続群書類従」の『喜連川判鑑』では永享10年11月1日に持氏嫡男の足利義久とともに報国寺で自害したとする。 |
参考文献
| 江田郁夫『室町幕府東国支配の研究』(高志書店、2008年)ISBN978-4-86215-050-9。 |
| 第II編第五章「鎌倉公方連枝足利満隆の立場」(初出:羽下徳彦編『中世の社会と史料』(吉川弘文館、2005年)ISBN978-4-642-02837-0)。 |
| 第II編第六章「鎌倉府による奥羽支配について」(初出:『国史談話会雑誌』27号(国史談話会、1986年))。 |
| 『喜連川判鑑』(元禄9年(1696年)写、原本 二階堂氏蔵書本 彰考館 識 続群書類従所収)。 |
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1399年
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新しい鎌倉公方となった兄・満兼の命により陸... |
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1424年
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満貞は鎌倉に入った |
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