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つながりの強いひと
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足利義稙
室町幕府第10代将軍。将軍在職は2つの時期に分かれており、一度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職する。約13... |
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足利義晴
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年-1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。 |
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細川政元
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名、管領。足利氏の庶流・細川氏当主。幕臣ながら将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ば... |
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細川高国
戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落として自ら権力を握った... |
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大内義興
大内義興(おおうちよしおき)は室町時代後期から戦国時代にかけての周防の戦国大名。大内氏の第30代当主。 |
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足利義政
父
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年-1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟... |
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足利義尚
室町時代後期の室町幕府第9代将軍(在職:1473年-1489年)。晩年に義煕と改名しているが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将... |
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足利義輝
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年-1565年)。父は第12代将軍の足利義晴。なお、第10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方... |
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足利義維
室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の実父。堺公方・平島公方と呼ばれた。生母は斯波氏。 |
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足利義昭
室町幕府第15代将軍。(在職:永禄11年(1568年)-天正16年(1588年))。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義... |
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日野富子
室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄に勝光、... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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足利義栄
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月-9月)。 |
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石原良純
日本の俳優、タレント、気象予報士である。愛称は、「まゆ毛」「よっちゃん」、「ずみさん」など。所属芸能事務所は、湘南ブラザース。 |
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足利義詮
南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。 |
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足利政知
父
室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。第6代将軍足利義教の次男。第7代将軍足利義勝の異母弟で、第8代将軍義政の異母兄。第11代将軍... |
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足利義勝
室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年-1443年)。6代将軍足利義教の嫡男。生まれてすぐに政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されたが、嘉吉元年(1441年... |
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足利義教
室町時代中期の室町幕府第6代将軍(在職:1428年-1441年)。3代将軍足利義満の3男。母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。僧侶時代は義円、還俗直... |
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後柏原天皇
室町時代、戦国時代の第104代天皇(在位:明応9年10月25日(1500年11月16日)-大永6年4月7日(1526年5月19日)。諱は勝仁(かつひと)。諡たる「後柏原」は、... |
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プロフィール
- 足利義澄とは
- 生涯
- 墓所・肖像
- 年譜
- 偏諱を受けた人物
- 参考文献
- 関連項目
足利義澄(あしかがよしずみ)は、室町幕府第11代将軍。在任:明応3年12月27日(1495年1月23日)-永正5年4月16日(1508年5月15日)。父は8代将軍 足利義政の異母兄である堀越公方 足利政知。はじめ法名を清晃といい、還俗して義遐、義高、そして義澄。正室は 日野富子の姪にあたる阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。明応2年(1493年)に従弟の10代将軍 足利義材が 細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。しかし、永正5年(1508年)に前将軍義稙を擁立する 大内義興が上洛の軍を起 ...
生涯
| 文明12年12月15日(1481年1月15日)、堀越公方足利政知の子として生まれる。 |
| 当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者としていたために、文明17年12月(1486年1月)、叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。 |
| 長享3年(1489年)3月、従弟の9代将軍足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人日野富子の推挙で従兄で叔父足利義視の子である足利義材(のちの義尹)が10代将軍に迎えられた。 |
| 富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにする。 |
| 延徳2年(1490年)4月27日にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。 |
| これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆくことになる。 |
| その後、清晃は明応2年(1493年)の明応の政変で義材を追放した管領細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。 |
| しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。 |
| ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。 |
| 復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め『後法興院記』文亀2年8月6日条、政元もこれを認めたこの時、義澄から政元に5ヶ条、貞宗に7ヶ条の要求が出されたという。 |
| なお、義忠は8月5日に義澄の見舞いに訪れたところを政元の兵に捕えられ、近所の阿弥陀堂で殺害されたという。 |
| だが、義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた細川政元の度重なる地方下向も義澄との確執が顕著になった文亀・永正期に頻発している。 |
| 永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。 |
| 7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。 |
| その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。 |
| また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。 |
| 永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。 |
| さらに豊後の大友親治や播磨の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。 |
| しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した。 |
| 享年32(満30歳没)。 |
| 義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。 |
| 両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。 |
墓所・肖像
| 法号は法住院殿旭山道晃。 |
| 墓所は不明だが、山梨県笛吹市に義澄の墓と伝えられる五輪塔がある。 |
| 確実な肖像画は伝存していない東京国立博物館蔵の肖像画は、足利義稙もしくは義澄の像とある。 |
| が、木像としては、等持院像・鑁阿寺像などが知られている。 |
年譜
| 明応2年(1493年)。 |
| 4月28日、従五位下に叙す。 |
| 元服して義遐と名乗る。 |
| 6月19日、義高と改名する。 |
| 11月24日(1494年12月21日)、正五位下に叙し、左馬頭に任ず。 |
| 12月27日(1495年1月23日)、征夷大将軍に任ず。 |
| 文亀2年(1502年)。 |
| 7月12日、従四位下に叙し、参議に任ず。 |
| 左近衛中将を兼ねる。 |
| 7月21日、義澄と改名する。 |
| 文亀3年(1503年)。 |
| 1月14日、従三位に叙す。 |
| 永正5年(1508年)。 |
| 4月16日、征夷大将軍・参議・左近衛中将解官。 |
| 永正8年(1511年)。 |
| 8月14日、死去。 |
| 永正18年(1521年)。 |
| 8月12日、贈従一位左大臣。 |
| 天文2年(1533年)。 |
| 9月12日、贈太政大臣。 |
参考文献
| 山田康弘「文亀・永正期の将軍義澄の動向」(所収:『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館、2000年)ISBN978-4-642-02797-7第三章)。 |
関連項目
| 深井城#深井の合戦。 |
| 花の乱(NHK大河ドラマ)演:羽江幹朗。 |
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1481年
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文明12年12月15日、堀越公方足利政知の子とし... |
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1487年
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上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と... |
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