| 辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。 |
| 辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXERJOE」で語っている。 |
| なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。 |
| 1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。 |
| ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。 |
| この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。 |
| アマで数試合をこなした後、プロ転向する。 |
| この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。 |
| アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC)1敗。 |
| 1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。 |
| 韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。 |
| 辰吉の前評判は高く、日本人ランカー全てにオファーを出したが拒否された。 |
| 1990年6月28日、3戦目。 |
| WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。 |
| 同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。 |
| 日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。 |
| 当時は安易な世界挑戦が多かったので、不明確ながら「最低でも国内、東洋タイトル獲得してから」という規定が制定された。 |
| 規定にしたがい日本王座を獲得し、試合後のインタビューでは「この試合は通過点」と世界王座へのこだわりを見せる。 |
| 1991年2月17日、6戦目。 |
| 世界ランカーアブラハム・トーレス(ベネズエラ)とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。 |
| トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。 |
| 当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。 |
| 1991年5月19日、1階級下(ジュニアバンタム級=現・スーパーフライ級)の世界ランカーレイ・パショネス(フィリピン)と対戦。 |
| アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。 |
| 辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せ付けずにアウトボクシングした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。 |
| 1991年9月19日、世界初挑戦。 |
| WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(米国)に挑む。 |
| アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。 |
| 国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功した。 |
| 平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。 |
| しかし、同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。 |
| 結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。 |
| そのため、翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。 |
| 1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。 |
| 休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレス(メキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。 |
| プロ初黒星を喫した。 |
| その後1戦をはさみ、1993年7月22日、世界再挑戦。 |
| 当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した辺丁一(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。 |
| そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。 |
| フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。 |
| 10か月前の雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲きを果たした。 |
| その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。 |
| 検査の結果、今度は網膜剥離が判明。 |
| 日本ボクシングコミッション(JBC)ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。 |
| 手術は無事に成功。 |
| 退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。 |
| その結果、帝拳プロモーション会長・本田明彦等の尽力も有り、1994年7月2日、JBC管轄外のハワイで復帰戦を強行。 |
| 4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。 |
| この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。 |
| JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。 |
| 現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。 |
| 王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している。 |
| この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。 |
| 現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。 |
| しかし、ここでも引退を拒否。 |
| 1995年、米国・ラスベガスでノンタイトル戦2試合を強行。 |
| 遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。 |
| 1996年3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に挑戦。 |
| 翌1997年4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。 |
| 元のバンタム級に戻し、WBC世界同級王者のシリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)に挑む。 |
| 元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)と対戦。 |
| 1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。 |
| 元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。 |
| 2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。 |
| その後、所属する大阪帝拳ジムから試合を組む意思がないことを再三にわたって告げられたものの、本人は引退を拒否。 |
| JBCの規定により「引退選手」扱いとなり、国内では試合を行うことができなくなった。 |
| 地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たしたものの、この試合に関してJBCは試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。 |
| JBC側は大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。 |
| 2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。 |
| スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。 |