| このころ父・潤は翻訳出版『天才論』がベストセラー化しており、また母・野枝は雑誌『青鞜』の主力執筆編集者として活躍していた。 |
| 1916年、母・野枝は大杉栄のもとに出奔し、1923年の関東大震災時の混乱下、大杉と共に軍部に惨殺される。 |
| 辻まことは生活力に乏しい父親と放浪生活を共にすることもあった。 |
| その間静岡工業学校あるいは法政工業学校にも在籍したがいずれも中退している。 |
| 1928年(昭和3年)静岡工業学校中退後、父親に伴ってパリに滞在し、父の友人の武林無想庵と連れられて来ていた山本夏彦などを知る。 |
| 無想庵と中平文子の娘武林イヴォンヌも知る。 |
| パリでは読売新聞の松尾邦之助が面倒を見た。 |
| :この時15歳のまことが著した辻潤とソ連の作家イリヤ・エレンブルグとの会見記『エレンブルグに会ふ』が雑誌「文学時代」に掲載されたりもしている。 |
| 1929年(昭和4年)父と共に帰国。 |
| 1932年(昭和7年 19歳)辻潤が天狗になったと言って二階から飛び降り怪我をする。 |
| オリオン社に入り絵描きの仕事をする。 |
| 竹久夢二の息子・竹久不二彦らと登山をするようになる。 |
| 1936年(昭和11年 23歳)オリオン社を内紛で辞め、三井直麿と絵の制作会社Zスタジオを創設、荻原賢次が参加。 |
| 1937年(昭和12年 24歳)生田花世の紹介で異父妹の大杉魔子と知る。 |
| 1938年(昭和13年 25歳)恋人の上原フミ子との間に女児が出来るが、イヴォンヌと同棲を始め、子はフミ子が引き取る。 |
| 1939年(昭和14年 26歳)イヴォンヌが女児を産みイブと名付けられるが、過失で窒息死させてしまう。 |
| 1940年(昭和15年 27歳)イヴォンヌが女児を産みノブと名付けられ、竹久不二彦の養女とする。 |
| 1942年(昭和17年29歳)「東亜日報」新聞特派員として天津に渡る。 |
| 1943年(昭和18年30歳)陸軍に現地徴用され報道班員として従軍。 |
| 1944年(昭和19年31歳)イヴォンヌに女児が生まれ最初の子と同じイブと名付ける。 |
| 1945年(昭和20年32歳)現地招集され陸軍に入隊、米軍に抑留さる。 |
| 1946年(昭和21年33歳)帰国する。 |
| 松本良子との情事が始まる。 |
| 1947年(昭和22年34歳)草野心平主宰の雑誌「歴程」に寄稿をはじめる。 |
| 1948年(昭和23年35歳)イヴォンヌと別れ、イブを妹の幸子の養女とする。 |
| 「歴程」同人となる。 |
| 小原院陽子と知り合う。 |
| 1949年(昭和24年36歳)松本良子と結婚。 |
| 1952年(昭和27年 39歳)もく星号事故で小原院陽子が事故死し、西常雄とともに三原山でその遺品の宝石を採取する。 |
| 1954年(昭和29年 41歳)良子が女児出産、直生と名付ける。 |
| 『歴程』に「蟲類図譜」の連載を始める。 |
| 1955年(昭和30年 42歳)宇佐見英治から矢内原伊作を紹介される。 |
| 1958年(昭和33年45歳)山岳雑誌「アルプ」「岳人」に寄稿。 |
| 1959年(昭和34年 46歳)矢内原の恋人だった吉田瀬津子を愛人とする。 |
| 1966年(昭和41年 53歳)初の画文集『山からの絵本』を刊行。 |
| 1967年(昭和42年 54歳)瀬津子が男児出産。 |
| 遊介と名付け認知する。 |
| 1968年(昭和43年 55歳)日本画廊で初の油絵個展を開催。 |
| 1971年(58歳)『岳人』の表紙絵を毎号手がけるようになる。 |
| 1972年(59歳)竹林会(アマチュア画家団体)でハワイ旅行。 |
| 胃がんの手術を受ける。 |
| 1975年(62歳)余命幾ばくもないと覚悟し縊死。 |
| 1977年 妻良子も胃がんで死去。 |
| 直生が長福寺に両親の墓を建てる。 |
| 詳しい女性関係などについては西木正明『夢幻の山旅』に拠った。 |
| 小説だがあとがきを見る限り事実と見られる。 |
| :墓石は福島県双葉郡川内村長福寺。 |