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プロフィール
- 辻発彦とは
- プロ入り前
- プロ入り後
- 現役引退後
- 打撃
- 守備
- グラブ
- 評価
- 年度別打撃成績
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 背番号
- 関連項目
辻発彦(つじはつひこ、1958年10月24日-)は、佐賀県小城市出身のプロ野球選手(内野手)。愛称はハツ、 はっちゃん。二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。より 中日ドラゴンズの総合コーチ(三塁コーチャー)を務めている。
プロ入り前
| 佐賀市立昭栄中学校を卒業した時点では身長が161cmと小柄で高校での硬式野球をあきらめようとも思ったが朝日新聞 2002年01月17日付朝刊、佐賀地方面P.25、佐賀東高校では強い情熱で練習を積んだ。 |
| 高校卒業後の身長は182cmに達し、日本通運浦和に進んで社会人野球でプレーした。 |
| レベルの高さにプレッシャーを感じたが、やがて中軸打者として4番を打つようになり、守備では三塁手を務めていた。 |
| 1983年のドラフト会議では2位で指名され、西武ライオンズに入団。 |
| 背番号は5だった。 |
| 指名の経緯については、身体能力の高さ、の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価した潮、1991年2月号、P.271と根本陸夫は述べている。 |
| また、都市対抗野球大会では1試合だけ二塁手を務めており、これを見たスカウトからは大型二塁手としての素質を評価されていた週刊ベースボール、2002年8月12日号、P.27。 |
| なお、社会人時代には目立った実績がなく、上位指名に対して驚きの声もあった。 |
プロ入り後
| 入団直後ののメサでの春季キャンプでは広岡達朗監督の激しいノックを受け、守備を鍛えられた。 |
| 同年は新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。 |
| 同年オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手には片平晋作や外国人、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻は二塁手を目指す事になった。 |
| 当時について、広岡監督が自らグラブを持って手本を示したため厳しい指摘にも反論できなかった、と後に述懐している。 |
| プロ2年目のには出場した110試合中90試合で二塁手を務め、出場機会は大幅に増えた。 |
| 日本シリーズ第2戦、7回裏一死一三塁の場面でセーフティースクイズを敢行するが、阪神の一塁手・ランディ・バースのファインプレーにあい、三塁走者の秋山幸二がホームでタッチアウトになる。 |
| これについては、フライをおそれたがもっと強いバントをすべきだった、と反省している。 |
| オフの11月19日には郭泰源や通訳と同乗して西武球場へ練習に行く途中、所沢市内で追突されて全治1週間のむち打ち症となったが、大事には至らなかった朝日新聞、1985年11月20日付朝刊社会面、P.23。 |
| 西武退団後は、ヤクルトスワローズの野村克也監督と千葉ロッテマリーンズの広岡達朗ゼネラルマネージャーから、それぞれ入団を誘われた。 |
| ヤクルトは5,000万円、ロッテは8,000万円の年俸を提示してきたが、先に声を掛けられていた事と野村監督の下で野球を勉強したい気持ちからヤクルトへの入団を決めた週刊ベースボール1996年11月11日号、P.120。 |
| 移籍1年目のはキャンプから若手と同じメニューをこなし、オープン戦にも2月25日の初戦から出場した。 |
| しかし疲労などからオープン戦の打率は.227と低調で、更に4月7日には対横浜戦の試合前の練習で右手人差し指を骨折してしまった。 |
| この治療の為の休養が逆に功を奏し、復帰した5月10日の対中日戦で猛打賞を記録すると以後は安打を量産する。 |
| 規定打席には達しないながらも6月上旬には4割近い打率で、オールスターにも出場した。 |
| 後半戦規定打席到達後は徐々に打率を下げ、自己最高の.333を記録するものの7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、セパ両リーグでの首位打者はならなかった。 |
現役引退後
| 引退後はから2年間ヤクルトで二軍守備走塁コーチを担当した。 |
| からは横浜ベイスターズで守備走塁コーチを2年間務め、二塁手の種田仁や遊撃手の石井琢朗の控えだった内川聖一の守備などを鍛えた週刊ベースボール、2002年8月12日号、P.29。 |
| は二軍打撃コーチを務めた。 |
| からはテレビ埼玉・NHK・BSの野球解説者および日刊スポーツ野球評論家を務めた。 |
打撃
| 社会人野球では4番を務めたが、西武ライオンズではAKD砲の脇を固めるつなぎ役となり、首位打者を獲得している。 |
| 特に1988年に平野謙が移籍してきてからは、パ・リーグ屈指の1・2番を形成した。 |
| 1kg以上もある重いバットを短く持ち、気持ちで打ちに行くタイプだったと自ら評価している潮、1991年2月号、P.273。 |
| 一方で野村監督が嘆いたほどバントは苦手で、これを克服するためにインコースでも右方向にゴロを打てる技術を磨いた週刊ベースボール1996年11月11日号、P.119。 |
| 現役時代、パ・リーグの投手は2・3番手でも球威があるのに対し、セ・リーグの投手は変化球を主体に低めに投げてくると語っている。 |
| この傾向については、セ・リーグの方が(当時の)球場が狭くホームランが出やすいためではないかと分析していた週刊ベースボール1996年8月26日号、P.26。 |
守備
| 二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞し、守備は日本プロ野球史上でも屈指のレベルに有る。 |
| 守備の際は投手が打ち取った当たりを安打にせず確実にアウトを取ることが野手の責任と考え週刊ベースボール2005年7月25日号、P.21、基本的には浅めに守っていた。 |
| 前方の弱いゴロへのダッシュなどは、三塁手時代の経験が活かされたという。 |
| ゴロについては「とにかく前にでて取りに行く」スタンスの持ち主である。 |
| 理由は「ボールがバウンドする数が減るほどイレギュラーの確率が下がるから」で、今も自身が守備を指導するときは必ずそう説く。 |
| 極端なポジショニングは好まなかったが、打者の打球傾向や捕手のサインから常に打球の方向は予測していた。 |
| 絶好調の時には打つ寸前のバットの角度から打球の方向が判断できたという。 |
| もともと肩はそれほど強くなく、西武での晩年頃からは右中間の打球でも遊撃手の松井稼頭央が中継に入るようになったが、出足や判断力でカバーしていた。 |
| 二塁手というポジションについては、送球方向が左右にわたり、盗塁の際にはタイミングを見極めて塁に入り、さらに外野手の守備位置によって打球を追う範囲が変わってくるなど、高い集中力と瞬間的な判断力が要求されると述べている。 |
| 打球へ常に集中していたため、現役引退後に打撃練習で守備についていても条件反射で声が出たという。 |
| 内野のコミュニケーションのためには二遊間を固定すべきと考えており週刊ベースボール2001年5月28日号、P.27、自身と合わせるのがうまかった遊撃手として宮本慎也や奈良原浩の名を挙げている週刊ベースボール2005年7月25日号、P.22。 |
| また、現役当時重要視されたサイン盗みについて近藤昭仁に技術を学び、プレイ中に守備位置で味方に知らせていた。 |
| なお、辻と石毛で完成させる6-4-3、4-6-3の二遊間のダブルプレーは文化放送のライオンズナイターでは「はっちゃんダブル」と形容された石毛のニックネームのハチと、辻の名前を掛けてである。 |
| プレイヤーの目から見たもっとも良い球場として当時内野が土だった後に天然芝となったグリーンスタジアム神戸を挙げている『球場物語―この1冊で球場のすべてが分かる!(B.B.mook―スポーツシリーズ(338)』、2005年 (川口和久との対談)。 |
| 土の内野では二遊間へ飛んだ打球に対し、右足を滑らせて減速しながら正面で取れるが、人工芝ではスパイクが止まるため、なるべく前でシングルで補るか逆シングルで補球する機会が増えたという週刊ベースボール2005年7月25日号、P.20。 |
グラブ
| プロ入り後、山崎裕之に紹介されたのを契機に久保田運動具店福岡支店長の江頭重利にグラブ作製を依頼し、引退まで関係は続いた。 |
| 現役時代の16年間で練習には多くのグラブを使ったが、試合で用いたのは5個程度で、平均3-4年、長ければ5年使用したグラブもある週刊ベースボール2000年6月19日号、P.19。 |
| 捕球後すぐ投げるために手のひらで打球を受けることを基本とし、感覚を重視してグラブの手のひら部分は通常よりかなり薄くなっていた。 |
| 他のプロ野球選手から見ると痛そうなほどの薄さだったという週刊ベースボール1999年11月1日号、P.110。 |
| ライナーやタッチプレーの時はディープポケットでつかみ、場合によっては土手の部分で捕るなど面の全てが使えることを理想とし、親指と小指の芯を硬くした以外は軟らかくしていた。 |
| サイズが小さめだった他は形状へのこだわりは少なく、正しい捕球を重ねる内に適当な形になったという。 |
| なお、現役晩年の2年間は守備範囲の減少をカバーするために大きめのグラブを用いた。 |
| 取り扱いには注意を払い、新品のグラブはボールを中に入れてタコ糸で縛り、水につけてから陰干しにして油を塗る工程を繰り返し、軟らかくなったものを練習で慣らし、およそ半年かけて使える状態にしていた潮、1991年2月号、P.272。 |
| また熱を持った人工芝で軟化したり雨で濡れることを嫌い、地面になるべく接さずに型を崩さないよう、指の部分を下に向けて立てていた。 |
| グラブが重くなるため油はあまり塗らず、雨の日の試合の翌日に限り、乾燥ボックスに一晩入れたあとで塗っていた。 |
| なお、独特のヒモの通し方は名前を冠して「辻トジ」と呼ばれ、馬場敏史、バナザード、今岡誠など様々な選手が同じ形状のグラブを使用した。 |
評価
| 1980年代後半から1990年代前半の西武ライオンズ黄金時代において石毛宏典とともに鉄壁のディフェンスを支えた象徴的選手である。 |
| かつて野村克也は過去現在を含めた日本プロ野球におけるベストナインを問われた時、名だたる大選手を押しのけ辻を正二塁手に挙げた。 |
| 千葉茂は、守備が上手くサインが盗める俊足のムードメーカーであり最高のプロ好みの仕事人、と評している。 |
タイトル
| 首位打者:1回(1993年)。 |
| 最高出塁率:1回(1993年)。 |
表彰
| ゴールデングラブ賞:8回(1986年、1988年-1994年)。 |
| ベストナイン:5回(1986年、1989年、1991年-1993年)。 |
| 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1990年、1994年)。 |
| 月間MVP:1回(1993年8月)。 |
記録
| 初出場:1984年4月3日、対ロッテオリオンズ戦(西武ライオンズ球場)松沼雅之(偵察要員)に代わり三塁手として出場、2打数0安打(投手:スティーヴン・シャーリー)。 |
| 初安打・初打点・初盗塁:1984年4月26日、対阪急ブレーブス戦(阪急西宮球場)4回永本裕章より右前適時打、同回に二盗。 |
| 初本塁打:1984年5月26日、対阪急ブレーブス戦(阪急西宮球場)4回宮本四郎から2ラン。 |
| 1000試合出場:1993年6月2日、対福岡ダイエーホークス戦(福岡ドーム)、NPB史上310人目。 |
| 1000本安打:1993年10月5日、対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)、4回江坂政明から投手強襲安打。 |
| 1500試合出場:1998年6月6日、対広島東洋カープ戦()。 |
| オールスターゲーム出場:9回(1986年、1988年-1994年、1996年)。 |
背番号
| 5(1984年-1995年)。 |
| 8(1996年-1999年)。 |
| 84(2000年-2001年)。 |
| 85(2002年-2004年、2007年-)。 |
関連項目
| 佐賀県出身の人物一覧。 |
| 埼玉西武ライオンズの選手一覧。 |
| 東京ヤクルトスワローズの選手一覧。 |
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1958年
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辻 発彦(つじ はつひこ)は、佐賀県小城市出... |
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1984年
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初出場:、対ロッテオリオンズ戦(西武ライオ... |
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