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三筆
日本の書道史上の能書のうちで最もすぐれた3人の並称であり、平安時代初期の空海・橘逸勢・嵯峨天皇の3人を嚆矢とする。その他、三筆と尊称される能書は以下... |
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松花堂昭乗
江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、... |
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本阿弥光悦
江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。 |
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近衛前久
友達
戦国時代・安土桃山時代の公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。 |
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後陽成天皇
安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日)-慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱を和仁(かずひと)といい後... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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近衛信尋
江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。 |
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藤原定家
鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中... |
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沢庵宗彭
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁など。但馬国出石(現兵庫県... |
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大覚
南北朝時代の日蓮宗の僧。名は妙実。近衛家の出と言われ、初めは真言宗の僧であった。1313年(正和2年)京都布教中の日像の説法に共感し、宗派を改め弟子とな... |
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尾形光琳
江戸時代の画家。工芸家。尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとり... |
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俵屋宗達
江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」ほか。 |
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島津義久
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後... |
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足利義政
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年-1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟... |
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烏丸光広
江戸時代前期の公卿・歌人・能書家。氏姓は藤原朝臣。公家(名家)の一つ烏丸家の当主。准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位行権大納言。 |
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池大雅
日本の江戸時代の文人画家、書家。本来の苗字は池野(いけの)だが、中国風に池と名乗った。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな... |
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良寛
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕-天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵... |
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里村紹巴
大永5年(1525年)-慶長7年4月14日(1602年6月2日))は、戦国時代の連歌師。里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈... |
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松尾芭蕉
江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(... |
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プロフィール
近衞信尹(このえのぶただ、永禄8年11月1日(1565年11月23日)-慶長19年11月25日(1614年12月25日))は、安土桃山時代の公家。 近衛前久の子。母は波多野惣七の娘。初名、信基、信輔。号は三藐院(さんみゃくいん)。天正5年(1577年)元服。加冠の役をつとめたのが 織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年) 左大臣となる。関白の位をめぐり 二条昭実と口論(関白相論)となり、 菊亭晴季の蠢動で、 豊臣秀吉に関白就任の口実を与えてしまった。実に藤 ...
生涯
| 信尹は、幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという天正18年(1590年)に書かれた菊亭晴季あての手紙。 |
| 秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすや否や、文禄元年12月に自身も朝鮮に渡海するため京都を出奔し肥前名護屋に赴いた。 |
| 後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。 |
| 廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言前述の手紙には「関白が豊臣氏の世襲になるならばせめて内覧任命を希望したい」という文言が入っていた事が問題になったと言われている。 |
| したため、文禄3年(1594年)4月についに後陽成天皇の勅勘を蒙る羽目に陥った。 |
| 信尹は薩摩の坊津に3年間配流となり坊津は近衞家荘園の要港で、坊津に出入りする船舶から取り立てた唐物税は近衞家の財源になっていた。 |
| 、その間の事情を日記「三藐院記」に詳述した。 |
| 京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国指定名勝平成13年1月29日指定。 |
| )、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。 |
| 地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。 |
| 鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられ、当代一流の文化人として薩摩の文化に貢献した。 |
| またこの時期書道に開眼したとされる坊津配流を境に豪快な作風の書となり、才能開花、坊津時代が開眼させたとするのは、古筆学者の鑑定による。 |
| 配流中の世話役であった御仮屋守・噯・宮田但馬守宗義同時期に石田三成の讒言により、秀吉の勘気をこうむった秀吉配下の木下大膳太夫吉俊が、宮田但馬守信景の屋敷内に寓居していたが、近衞公配流の関連で、大膳太夫を長く置くことは許されず、加世田の杉本寺(坊津・一乗院の末寺)に移す様、命令がくだり、ついで秀吉より切腹の命があり、検視役に北条善左衛門が寄こされ、加世田の相撲見物途中、津貫の六本木で軍勢幾十人に待ち伏せされ、討ち取られた。 |
| 薩摩側は島津義久の高命で宮田但馬守を御仮屋守・噯とするなど、最大の歓待に努めた。 |
| 上記のような秀吉の配慮もあり、近衞公滞在の環境を整える為の腐心や尽力がうかがえる。 |
| 木下吉俊は、朝鮮出兵の時、薬用に虎肉を得んとした秀吉の命を、島津義弘に伝えた人で、これにより、済州島に居た島津軍は血気盛んな家臣を率いて、虎刈りを行なったということである。 |
| に「信」の字を与え信景とした宮田家は現存しており、今でも「信」を代々の通字としている。 |
| 現在、近衞屋敷跡は近衞公園となり、近衞文麿に依る碑も建立、お手植えの藤は季節に花を咲かせる。 |
| 遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年居たい旨書状に残すほどであった信尹は都にすぐ戻っても対面を保てるだけの経済が成り立たないとの理由を付して、今しばらく薩摩にとどまっても良いとする手紙を書いている。 |
| 慶長元年(1596年)9月勅許が下り京都に戻る。 |
| 慶長5(1600)年9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し撤退を余儀なくされる。 |
| そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。 |
| また島津義弘譜代の家臣・押川強兵衛も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、近衞信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。 |
| 信尹の父・前久も薩摩下向の経験をしており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し近衞家は中世より領主として島津荘を伝来した関係で代々島津氏と親しかった。 |
| また前久は家康に徳川の姓を斡旋し、天正10(1582)年には家康を頼って遠江に下向するなど徳川氏との関係も深かった。 |
| 、家康から所領安堵確約を取り付けた。 |
| 前久・信尹は父子で薩摩に滞在し薩摩の平和・文化の発展に貢献したことになる。 |
| 慶長6年(1601年)左大臣に復職。 |
| 慶長10年(1605年)には念願の関白となる。 |
| 慶長19年(1614年)11月25日薨去。 |
| 京都東福寺に葬られる。 |
| 信尹には庶子しか居なかった生まれてすぐ亡くなった子も含めて、複数の子が居た。 |
| 中でも、書道に優れた太郎姫を可愛がり、如何にも、子煩悩・グルメ・大食漢でユーモラスな明るい性格の伺える、子供宛ての手紙を残している。 |
| ので、後陽成天皇第4皇子で信尹の同腹の妹中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衞信尋を名のり継がせた。 |
書
| 書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。 |
| 特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衞流、または三藐院流と称される。 |
| 本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。 |
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1580年
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内大臣、天正13年1585年左大臣となる |
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1594年
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ついに後陽成天皇の勅勘を蒙る羽目に陥った |
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