27119
27377
311564
%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 近衛基通の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
近衛基実
父
平安時代末期の公卿。関白藤原忠通の子。正二位・摂政・関白・左大臣。贈正一位太政大臣。六条殿、梅津殿、中殿を号す。 |
|
|
近衛家実
近衛家実(このえいえざね、治承3年(1179年)-仁治3年12月27日(1243年1月19日))は鎌倉時代前期の公卿。摂政・関白近衛基通の子。准三后・従一位・摂政・... |
|
|
平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
|
|
安徳天皇
第81代天皇(在位:治承4年4月22日(1180年5月18日)-寿永4年3月24日(1185年4月25日))。諱は言仁(ときひと)。 |
|
|
藤原忠通
平安時代後期の公卿。摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。従一位・摂政・関白・太政大臣。法性寺殿と号す。同母姉に高陽院藤原泰子、異母弟に藤原頼長がいる。 |
|
|
九条兼実
平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。摂政・関白藤原忠通の子。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。五摂家の一つ、九条家の祖。 |
|
|
高倉天皇
平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年3月30日)-治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。 |
|
|
源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
|
|
平盛子
摂政・近衛基実の正室(北政所)。父は平清盛、母は不詳。近衛基通の養母。後に高倉天皇准母として准三宮に叙せられ、白河殿・白河准后と号する。 |
|
|
玉葉
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。 |
|
|
九条道家
鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。光明峯... |
|
|
松殿基房
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。正式には藤原基房(ふじわらのもとふさ)。関白の藤原忠通の次男。母は源国信の娘・俊子。松殿家の祖。従一位... |
|
|
藤原忠隆
親 母
平安時代末期の公卿。従三位修理大夫藤原基隆(権大納言藤原経輔の曾孫)の長男。 |
|
|
藤原基実
今まで使っていた綿ブロードより柔らかく、人形の体に沿って前よりいいシルエットを出しています。袖も裾も前より長くしたので優雅に見えるようになりました... |
|
|
廊御方
廊御方(廊の御方、ろうのおんかた 応保元年(1161年)?-没年不詳)は平安時代末期の女性。平清盛の八女。母は常盤御前。源義経の異父妹とされる。別名は三... |
|
|
左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
|
|
平宗盛
平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は... |
|
|
九条良経
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。後京極良経とも呼ばれる。摂政・関白九条兼実の次男。従一位・摂政・太政大臣。後京極殿と号す。 |
|
|
藤原忠実
平安時代後期の公卿。准三宮、従一位・摂政・関白・太政大臣。藤原師通の長男。日記『殿暦』を残す。別名富家殿、知足院殿、禅閤。 |
|
|
畠山重忠
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将... |
|
|
プロフィール
近衛基通(このえもとみち、永暦元年( 1160年)-天福元年5月29日(1233年7月8日))は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。摂政・関白 近衛基実の子。従一位・摂政・関白・内大臣。普賢寺殿、近衛殿を号す。
経歴
| 基通が6歳のとき父・基実は24歳で病没。 |
| 継母(といっても11歳)の盛子が翌年准三后を賜り高倉天皇の准母(白河殿)となると、盛子は基通を自らの養子としてこれを後見した。 |
| 本来であれば、藤原忠通-基実-基通と摂関家の嫡流が継承される筈であったが、父が薨去したときに7歳であった基通には摂関になる以前に官位そのものを有していなかったために、摂関の地位は基実の異母弟の基房が中継ぎとして継承した。 |
| しかも、母方の伯父藤原信頼は平治の乱の首謀者として殺害されており、「謀反人の甥」という影が付きまとっていた。 |
| 基通は台頭著しい平家一門を事実上の外戚とすることで摂関家の継承者の地位を保つことが可能となっていた。 |
| 後白河法皇が盛子に摂関家領を継承させたのも将来の基通への継承を前提にしていたものと考えられている。 |
| また、当時基実の弟である九条兼実も盛子を「仮の伝領の人」、基通を「宗たる文書・庄園、伝領せらるべき仁」と呼んで基通を摂関家の継承者とみなしていた(『玉葉』治承3年6月18日条)。 |
| 嘉応2年(1170年)4月、正五位下に叙し、侍従や右近衛少将に任官。 |
| 11歳で元服したこの頃に清盛の六女・完子を正室としたと見られる。 |
| 承安4年(1174年)8月には従三位に叙せられる。 |
| だが、基房が10年以上にわたって摂関の地位を占めて独自の地位を確立するようになると、法皇は基房への摂関家継承を考えるようになり、基通の後見人であった平清盛の反発を受けることになる。 |
| 治承3年(1179年)、治承三年の政変で後白河法皇の院政が停止され反平家の公卿が一掃されると、11月には内大臣・内覧・関白に任じられた(前代未聞の昇進である)。 |
| 翌年2月には安徳天皇の摂政となり、従一位に叙された。 |
| しかし位階こそ公卿となっていたものの参議、大納言・中納言といった議政官に就くことが出来ない、更に父の早世によって有職故実を習うことが出来なかったと、政務に未熟な悪条件が重なっていた。 |
| そのため度々儀式で失態を犯し、関白としての権威は低かった。 |
| 興福寺の僧兵が平家に反乱を起こそうとしたときは、それを食い止めようと尽力している。 |
| 治承5年(1181年)閏2月に清盛が薨去して平家が急速に衰退し、寿永2年(1183年)の源義仲の攻勢の前に都落ちを余儀なくされたときは、これまでの縁の深さから平家と行動をともにするよう平信基に迫られるが、最終的にこれを拒絶し都にとどまった。 |
| その後は後白河法皇の側近として仕え、後鳥羽天皇の擁立にも貢献した。 |
| 義仲と法皇の仲が険悪になって、義仲によるクーデターが実行されたときには全ての任を解かれたが、寿永3年(1184年)に義仲が討たれると、摂政に復した。 |
| その後は後白河法皇随一の側近として信任を受けたが、かつて平家と親しかった経緯から叔父である九条兼実をはじめとする公卿から基通に対する非難が相次ぎ、文治2年(1186年)3月には源義経が兄・源頼朝追討の院宣を法皇に出させることを仲介した張本人と見なされて全ての任を解かれ、篭居されるに至った。 |
| その後、基通に代わって兼実が摂政となったが、法皇はなおも基通を庇護していたと言われている。 |
| 建久7年(1196年)11月、鎌倉幕府との提携を嫌う後鳥羽天皇や反兼実派の源通親らによって、再び関白に任じられた。 |
| 建久9年(1198年)正月には土御門天皇の践祚と共に摂政に任じられる。 |
| しかし、源通親の死後には後鳥羽上皇と婚姻関係を結んだ九条良経の圧迫を受けて建仁2年(1202年)12月に辞任し、以後は政界から退いた。 |
| 承元2年(1208年)10月(異説として7月)に出家し、行理と名乗る。 |
| 天福元年5月29日、薨去した。 |
| 近衛基実・基通親子と基実の弟である九条兼実の関係は大変悪かったらしく、兼実は基通の関白就任直後こそ基通の補佐をしていたが、その後疎遠となった。 |
| 兼実の日記『玉葉』には後白河院と基通の関係を「法皇艶摂政依其愛念」と記してその関係を疑い(寿永2年8月2日条)、兼実の同母弟である天台座主慈円(兼実と親しかった)が著した歴史書『愚管抄』では基実親子を「無能な人物」であるとしている。 |
官歴
| 1170年(嘉応2)4月23日、元服し、正五位下に叙位。 |
| 昇殿と禁色を許される。 |
| 4月29日、侍従に任官。 |
| 12月5日、右近衛少将に転任。 |
| 1171年(嘉応3)1月18日、近江介を兼任。 |
| 1172年(承安2)1月5日、従四位下に昇叙。 |
| 侍従・近江介如元か?1月23日、右近衛少将に転任。 |
| 近江介如元か?10月26日、右近衛中将に転任。 |
| 近江介如元か?。 |
| 1173年(承安3)11月21日、従四位上に昇叙し、右近衛中将如元。 |
| 1174年(承安4)8月2日、従三位に昇叙し、右近衛中将如元。 |
| 1175年(承安5)1月22日、美作権守を兼任。 |
| 12月8日、正三位に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元。 |
| 3月6日、従二位に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元。 |
| 1179年(治承3)11月17日、正二位に昇叙し、関白宣下。 |
| 列座は従一位行左大臣藤原経宗の上座。 |
| 1180年(治承4)2月21日、関白を止め、摂政宣下。 |
| 4月21日、従一位に昇叙し、摂政・内大臣如元。 |
| 1182年(寿永元)6月28日、内大臣を辞任。 |
| 1183年(寿永2)11月21日、摂政・藤原氏長者を停む。 |
| 1184年(寿永3)1月22日、摂政宣下、藤原氏長者宣下。 |
| 1186年(文治2)3月12日、摂政・藤原氏長者を停む。 |
| 1196年(建久7)11月25日、関白宣下。 |
| 1198年(建久9)1月11日、関白を止め、摂政宣下。 |
| 1202年(建仁2)12月25日、摂政を止む。 |
| 1208年(承元2)7月5日、出家。 |
| 1233年(天福元)5月29日、薨去。 |
系譜
| 父:近衛基実。 |
| 母:藤原忠隆の娘。 |
| 養母:平盛子(平清盛の四女)。 |
| 正室:平完子(平清盛の六女)。 |
| 妻:源顕信の娘。 |
| 長男:近衛家実(1179-1242)。 |
| 妻:平信範の娘。 |
| 次男:近衛道経(1184-1238)。 |
| 妻:僧最舜の娘(家女房)。 |
| 三男:鷹司兼基(1185-?)。 |
| 四男:藤原基教(1196-1213))。 |
| 男子:円静(または円浄)。 |
|
1170年
|
正五位下に叙し、侍従や右近衛少将に任官 |
|
1179年
|
治承三年の政変で後白河法皇の院政が停止され... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
近衛基通さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|