| 時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。 |
| 起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す。 |
| :このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。 |
| ペルシア生まれの胡人であった。 |
| 彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。 |
| 〈永寧寺塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。 |
| 自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮所(諸仏の国)にも無い也、極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。 |
| 此の口に南無と唱え、連日合掌す。 |
| :永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。 |
| その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。 |
| (洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条))。 |
| また、『''二入四行論''』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想をも伝えている。 |
| 普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。 |
| 9月21日(10月18日)、広州に上陸。 |
| 当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。 |
| 『』第三巻。 |
| この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。 |
| 武帝は達磨に質問をする。 |
| 帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。 |
| 何の功徳有りや」師曰く「並びに功徳無し」帝曰く「何を以て功徳無しや」師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。 |
| 影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。 |
| 是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」帝、領悟せず。 |
| 師、機の契(かな)はぬを知り。 |
| 武帝は達磨の答を喜ばなかった。 |
| 達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。 |
| 後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。 |
| 達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。 |
| 壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。 |
| これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。 |
| 大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取ってこの伝説もまた、慧可と曇林が盗賊に臂を斬られたという唐高僧伝のエピソードからの潤色と水野弘元などは指摘する。 |
| 決意を示し、入門を求めた。 |
| 達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。 |
| この慧可が禅宗の第二祖である。 |
| 以後、中国に禅宗が広まったとされる。 |
| 瑩山紹瑾『伝光録』第二十九章を参照。 |
| 永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる大川普済『五灯会元』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。 |
| 成尋『参天台五台山記』によると太和19年(495年)10月5日入滅であるが、それより後年にも活動していた記述があり、信憑性にはやや問題がある。 |
| 一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう道元『正法眼蔵』第二十五「渓声山色」、瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」を参照。 |
| それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。 |
| その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。 |
| 宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。 |
| 帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。 |
| 孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。 |