TOPページ > □ 医会紹介 > 教授インタビュー > 遠藤 啓吾(えんどう けいご) 遠藤 啓吾(えんどう けいご) 放射線診断核医学・画像診療部 主任教授 専門分野:核医学分野・分子イメージング 日本医学放射線学会理事・日本核医学会理事長など 出身地:香川県 出身大学:京都大学 核医学的手法を用いた抗体画像診断法を中心に様々な分野の研究を行っています。外科や皮膚科の医師と協力してnavigator surgery(センチネルリンパ節)や縮小手術の研究も共同で行っています。放射線医学の世界では日本を代表する教授で、2006年には日本医学放射線学会の学会長をつとめました。 □ 遠藤教授へのインタビュー 先生が医学の道に入られたきっかけをお聞かせください。 遠藤 :私は1946年(昭和21年)1月、香川県の瀬戸内海に面した坂出市という町で生まれました。江戸期からこの地域で ... もっと見る
TOPページ > □ 医会紹介 > 教授インタビュー > 遠藤 啓吾(えんどう けいご) 遠藤 啓吾(えんどう けいご) 放射線診断核医学・画像診療部 主任教授 専門分野:核医学分野・分子イメージング 日本医学放射線学会理事・日本核医学会理事長など 出身地:香川県 出身大学:京都大学 核医学的手法を用いた抗体画像診断法を中心に様々な分野の研究を行っています。外科や皮膚科の医師と協力してnavigator surgery(センチネルリンパ節)や縮小手術の研究も共同で行っています。放射線医学の世界では日本を代表する教授で、2006年には日本医学放射線学会の学会長をつとめました。 □ 遠藤教授へのインタビュー 先生が医学の道に入られたきっかけをお聞かせください。 遠藤 :私は1946年(昭和21年)1月、香川県の瀬戸内海に面した坂出市という町で生まれました。江戸期からこの地域では塩田による塩作りが盛んで、私は方々に塩田が広がるのどかな環境を遊び場にして育ちました。時々、観光客が塩田のそばで弁当を食べているのをみて、「なぜ、こんなところがよいのかな?」と、不思議に思った記憶があります。しかし、後年、所用で訪れたイタリアのシチリア島で、今なお塩田による塩作りが行われているのを見て、懐かしさで感激しました。 子供の頃の私は、とても体が弱かったのです。小学2年生の時には膿胸という重篤な肋膜炎を患って入院し、担当の医師から余命1年と言われました。ところが、ちょうどその頃に出回るようになった抗生物質のおかげで、なんと2週間の入院で治ってしまったのです。不思議なもので、その後は全く病気をしない健康体になりました。そのときの体験を通じて、子供心にも医学の偉大さが感じられ、将来は医学の道に進むことを漠然と意識するようになりました。 当時の香川県には京都大学、岡山大学、徳島大学の医学部出身の医者が多かったようです。私は高松市にある高松高校に進みましたが、この高松高校からは、毎年何人かの卒業生が京都大学医学部に進んでいました。放射線医学の分野で優れた業績をあげられた赤木弘昭先生(大阪医科大学名誉教授)・鳥塚先生(後に福井医科大学長)・小西淳二先生(前京都大学医学部核医学科教授)なども、高松高校(旧制高松中学)から京都大学に進まれた先輩に当たります。そうした方々の例にならって、私も京都大学医学部に進み、医学生としての第一歩を踏み出しました。 京都大学医学部での学生生活では、どのような思い出がありますか? 遠藤 :日本の伝統を受け継ぐ千年古都の京都は、私も含め、誰からもとても好かれる町です。私は京都大学の近くの北白川というところに下宿し、京都特有の落ち着いた雰囲気と柔らかな言葉遣いのにと人に囲まれて、楽しい学生生活を送りました。 専攻の選択に当たっては、私は内科系を志望していました。しかし、学園紛争の影響で研修システムが混乱しており、専攻をくじびきできめることになりました。その結果、私はたまたま放射線科に当たったのです。ただ、研修のローテーションで内科も学べることになっていたので、そのまま放射線科に進みました。現在の川崎医科大学放射線科教授の福永仁夫先生も、私と一緒にくじびきで放射線科に入局した仲間です。 さて放射線科に入ってみると、教授は長い間空席で、若い医師だけで構成されていました。助教授に高松高校の先輩である鳥塚先生・小野山先生、講師に阿部先生・浜本先生、助手に井村先生などがおられ、若い雰囲気にあふれていました。勉強会をうどんやラーメンを食べながら行うこともあり、とても居心地が良かったのを覚えています。しかし、ご存じの通り、その後濃くした先輩方がそろいもそろって放射線医学界に確固たる業績を残されたわけですから、当時の京都大学医学部放射線科の陣容はそうそうたる顔ぶれだったと、改めて実感しています。 前にもふれましたが、私の在学中は学園紛争がとても盛んで、ほとんど授業がない時期がありました。やがて学園紛争が沈静化して授業が再開され、1970年9月、例年より6ヶ月遅れて卒業しました。この頃は時間を持て余しており、研究室に顔を出すと、先輩たちも暇そうにしていて、「遠藤君、麻雀をしようよ」と言われ、質流れの安い麻雀牌を買ってきて、研究室の片隅で先輩たちと麻雀に興じたこともありました。学園紛争の影響が大きく、まだ研究も始めておらず、私の人生の中でもちょっとのんびりしていた時代といえます。 大学に残られた後,どのような経緯で核医学の研究をはじめられたのですか? 遠藤 :当時は,CTもMRIもない時代ですから、放射線の研究を始める人が誰でもするように、私も、まず、胃と腸のX線診断から始めました。その後、生まれ故郷である香川県坂出市の坂出回生病院に赴任、そして2年後、母校の京都大学医学部放射線科で教授になられた鳥塚先生から誘いの声をかけていただき、 1974年に京都大学医学部放射線科に戻りました。私が京都大学に戻ったときは、ちょうど大学の体制も整い、米国留学から帰国された 森 徹先生(後に京都大学医学部臨床検査医学教授),森田陸司先生(後に滋賀医科大学病院長)、小西淳二先生(前出)、石井靖先生(福井医科大学名誉教授)、高橋正治先生(京都医療短期大学長)らが研究を開始されたばかりでした。そこで私は小西先生の第一歩とされる甲状腺に関する研究に取り組みました。具体的に言えば、ヨウ素125(125I)やヨウ素131(131I)を実験マウスに注射して、ヨウ素を甲状腺に運ぶ抗体の分析を行うというものです。研究室に何百匹という実験マウスを飼育しておき、1匹ずつにヨウ素125 やヨウ素131を注射しては毎日午前3時頃に採血のために研究室へ出かけるという生活を続けました。この頃の私は30歳前後で、すでに高松高校の同級生と結婚しており、子供も産まれていました。研究に明け暮れる毎日でマウスから採血する際に使用する麻酔用エーテルのにおいが洋服やからだに染みついていることに自分では気が付かず、まだ幼かった子供達から「パパ、くさい」と良く言われたものです。 これまでの研究生活の歩の中で、最も印象に残っているのは何でしょうか。 遠藤 :私がこの世界に入った頃は、放射線医学は未開拓の研究分野でした。そうした時代に、京都大学医学部放射線科で、鳥塚先生を初めとする若くて優れた先輩方と出会い、楽しい雰囲気の中で研究者としての第一歩を踏み出せた私は、本当に恵まれていたと思います。くじびきで偶然に選んだ放射線科での先輩方との出会いが研究生活に入る端緒となり、やがて生涯を通じた核医学研究の仕事へと発展していくとは、当時の私は夢にも思いませんでした。私の人生が多くの方々に支えられてきたこと、そして研究や臨床においても指導者の影響が大きかったことをしみじみと実感しています。現在、私自身が指導的な立場におり、その責任の大きさを感じると共に、医学生には「自分の進路は、良き指導者の教育を受けられることを指針に決めなさい」と助言しています。 吉日 このページのトップへ 戻る


































