| 日本列島において、継続的に人間の手が入る森林が出現した時期は、少なくとも縄文時代までは遡ることが出来る。 |
| 三内丸山遺跡の研究によって、この遺跡に起居していた縄文人集団が近隣の森に栽培種のクリやウルシを植えて利用していたことが明らかとなっている佐藤洋一郎・石川隆二『〈三内丸山遺跡〉植物の世界-DNA考古学の視点から-』(裳華房、2004年)。 |
| しかし歴史時代に入るとともに日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していくこととなる。 |
| 最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇の6年(676年)には南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。 |
| 300px|thumb|left|都市近郊に残された里山(神戸市北区山田町、帝釈山より俯瞰)。 |
| だが日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられているJaredDiamond,"Collapse:HowSocietieschoosetofailorsucceed",PenguinBooks,2005,pp297-298.。 |
| 織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた。 |
| こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられているIbid,p298.。 |
| すなわち、18世紀まで日本列島の里山は継続的に過剰利用の状態にあり(「はげ山」参照)、「持続可能な」利用が為されていたわけではない。 |
| こうした広範な森林破壊は木材供給の逼迫をもたらしただけでなく、山林火災の増加、台風被害の激甚化、河川氾濫の増加など様々な災厄を日本列島にもたらすことになった。 |
| このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制をしいた。 |
| こうした対策の結果、日本列島の森林資源は回復に転じ、里山の持続可能な利用が実現した。 |
| だが、近世の持続可能な里山利用は近代に入ると3度の危機に瀕した。 |
| 最初の危機は明治維新前後で、旧体制の瓦解とともに木材の盗伐・乱伐が横行し、里山の森林が急激に失われた。 |
| その後、社会の安定とともに里山の植生は一定の回復を見たものの、太平洋戦争が始まり物資が欠乏すると再び過度の伐採が行われ、各地に禿げ山が出現した。 |
| このときは、軍需物質として大木が次々に供出させられたとされる。 |
| 戦中・戦後の乱伐からの回復は、1950年に始まる国土緑化運動の成果を待たなければならなかった有岡利幸、『里山Ⅱ』、67-98ページ。 |
| そして3度目の危機が、現在まで続く里山の宅地化・里山の放置である。 |
| 1955年頃から始まった家庭用燃料の化石燃料化が1975年頃には完全に完了し、家庭用燃料としての薪・木炭は娯楽用途を除きほぼ姿を消していた。 |
| また化学肥料の普及、使役家畜の消滅も里山の経済価値を失わせた。 |
| こうして経済価値を失った里山は、1960年代に入ると次々に宅地化されて消滅した。 |
| 中でも大規模なのが千里ニュータウン、高蔵寺ニュータウン、多摩ニュータウン、千葉ニュータウンなどのニュータウン群であった。 |
| これら郊外の宅地化は、高度経済成長時代に都市に流入した労働力に住居を供給する為のものだった若林幹夫『郊外の社会学』(筑摩書房、2007年)。 |
| 宅地化を免れた里山も、利用価値の殆どが失われた為に放置され、人間の関与が失われたことによる植生の変化(極相林化や孟宗竹の侵入による竹林化)、不法投棄される粗大ゴミや産業廃棄物による汚染にさらされている。 |