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つながりの強いひと
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岸信介
日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。元衆議院議員、CIAエージェント。満州国総務庁次長、商... |
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武田知己
武田 知己 名前 武田 知己 カナ タケダ トモキ プロフィール 1970年 福島県生まれ 1995年上智大学文学部英文科卒業 現在 大東文化大学法学部 ※2011年2月... |
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鳩山一郎
日本の政治家。弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議... |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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伊藤隆
先代 伊藤隆 略歴
息子の聞き書き
大正10年
誕生
2月11日生まれ紀元節(今の建国記念の日)
幼少時は大井で育つ
昭和11年
巣鴨商業学校(がもしょう)卒業... |
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梅津美治郎
昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年(1978年)に靖国神社に合祀される。 |
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大川周明
日本の思想家。1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1... |
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河原温
日本出身の美術家。コンセプチュアル・アートの第一人者として国際的にきわめて高い評価を受けており、日本出身の現代美術家のなかで世界的にもっとも著名な1... |
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東條英機
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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広田弘毅
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。新字体で広田弘毅(ひろたこうき)とも表記される。外務大臣(第49・50・51・55代)、... |
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尹奉吉
上海天長節爆弾事件を起こした朝鮮の独立活動家。号は梅軒。 |
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牛村圭
日本の比較文化学者。国際日本文化研究センター教授。専攻は比較文学、比較文化、近現代日本思想史。 |
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東郷茂徳
東郷茂徳(とうごうしげのり、1882年(明治15年)12月10日-1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大... |
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松岡洋右
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦... |
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鈴木貫太郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。海軍軍令部長(第8代)、枢密院副議長(第14代)、枢密院... |
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木戸幸一
第二次世界大戦期の日本の政治家である。侯爵。最後の内大臣。幸一の父・木戸孝正は明治の元勲・木戸孝允の妹・治子と長州藩士・来原良蔵の長男。夫人は陸軍... |
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石橋湛山
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(... |
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近衛文麿
日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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野村吉三郎
昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県和歌山市出身。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交... |
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プロフィール
- 重光葵とは
- 生い立ち
- 外交官として
- 戦時中の外相
- 敗戦国の全権
- 戦後
- 人となり
- 著書
- 文書集
- 評伝
- 研究書・論文
- その他
- 外部リンク
- 関連サイト
重光葵(しげみつまもる、7月29日-1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。第二次世界大戦中に 外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した。戦後は東京裁判で有期禁錮の判決を受けたが、赦免されて政界に復帰し、再び 外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。貴族院勅選議員、衆議院議員(戦後)当選3回。
生い立ち
| 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。 |
| しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。 |
| 旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。 |
外交官として
| 文官高等試験外交科合格後のには駐華公使となる。 |
| 9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。 |
| これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。 |
| 1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。 |
| 何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾テロに遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。 |
| 重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」『隻脚公使』より。 |
| と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。 |
| このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎ものちに外務大臣、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立っている。 |
| なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。。 |
| 上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、2月、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案が賛成は42ヵ国対反対1ヵ国(日本)で採択された。 |
| これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。 |
| このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。 |
| しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。 |
| 欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。 |
| その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)・駐英大使を歴任。 |
| 特に日英関係が悪化するなかで関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだったといわれた。 |
| だが、欧州戦争において重光は「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにも関わらず日本政府は聞き入れず、松岡洋右外務大臣が日独伊三国同盟を締結し、結果としてアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。 |
戦時中の外相
| 東條内閣・小磯内閣において外務大臣を務める。 |
| 東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、11月の大東亜会議を開くために奔走。 |
| 人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。 |
敗戦国の全権
| 1945年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて。 |
| 中央で署名するのが重光全権、その左(写真右端)は加瀬俊一、重光の前方で署名を見守るのはリチャード・サザーランド中将。 |
| 重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮内閣で外相に再任され、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという役目を引き受ける。 |
| 9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行った。 |
| 重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」ととらえ五百籏頭真『占領期』49頁、その時の心境を「願くは御國の末の栄え行き我が名さけすむ人の多きを」と詠んでいる。 |
| 外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、強硬に重光をA級戦犯として起訴するよう要求してきた。 |
| 当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。 |
| しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。 |
| 結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、11月12日に有罪判決を受けた。 |
| 裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はGHQによるソ連を満足させるための政治的妥協によるものだと評する声も多かった。 |
| 事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。 |
| 貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。 |
| 4年7ヵ月の服役の後、11月には仮釈放されている。 |
戦後
| 重光は公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。 |
| 改進党総裁であったに野党首班として総理大臣の座を吉田茂と争い2位。 |
| 続くの総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。 |
| 野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。 |
| 吉田との会談により閣外協力を受け入れた。 |
| その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。 |
| の保守合同では自由民主党結党に参加。 |
| 同年12月18日、国連総会は全会一致で日本の国連加盟を承認した。 |
| 重光は日本全権として加盟受諾演説を行い、「日本は東西の架け橋になりうる」という名句を残した。 |
| その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ国連の塔は輝きて高くかかげし日の丸の旗」と詠んでいる。 |
| 帰国前の12月23日、日本では石橋内閣が成立したため外務大臣の職を離れる。 |
| 日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。 |
| それから一月後の1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。 |
人となり
| 重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。 |
| 重光は駐華公使のとき第一次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。 |
| 義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。 |
| 後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。 |
| その後、公務に復帰した際に時の外務大臣・広田弘毅は重光の体を気遣って、当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命して、本来駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。 |
| だが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡外務大臣のもとで行われた主要国大使の一斉解任の際にも、重光駐英大使だけは対象から外されたという)。 |
| また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったといわれている。 |
| 他方、東郷もナチス・ドイツに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、極東国際軍事裁判では「親独派」の疑いをかけられる事となり、結果としては広田の配慮が裏目に出る事となってしまった。 |
| 戦後、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した第一項については実現していない。 |
| 巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろたことに関して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。 |
| 日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年(昭和27年)8月号掲載)。 |
| 近衞文麿とは親交があったが、敗戦後、近衞が戦争に関する自分の責任を回避すべく、天皇や軍部に全責任を転嫁するかのような言動に終始したことについては「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。 |
| 近衞公の如きは格別であるが…」と述べ、近衞を厳しく批判している。 |
| 戦後、鳩山内閣で外務大臣を務めた際、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。 |
| また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。 |
| というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時の事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。 |
著書
| 『昭和の動乱(上・下)』(中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、2001年) ISBN4122039185&ISBN4122039193/初版1952年(中央公論社 上・下)。 |
| 『重光葵著作集(1)』(原書房、1978年、解題加瀬俊一)、本巻のみ刊。 |
| 『重光葵外交回想録』(日本図書センター、1997年)/中公文庫、2011年7月 ISBN4122055156 元版毎日新聞社 (初版1953年/新版1978年、序文加瀬俊一)。 |
| 『巣鴨日記(正・続)』(文藝春秋新社、1953年)、『文藝春秋』昭和27年8月号に抜粋掲載。 |
文書集
| 『重光葵手記』(伊藤隆・渡辺行男編、中央公論社、1986年)、ISBN4120015181。 |
| 『続重光葵手記』(伊藤隆・渡辺行男編、中央公論社、1988年)、ISBN4120016846。 |
| 『重光葵最高戦争指導会議記録・手記』(伊藤隆・武田知己編、中央公論新社、2004年)、ISBN4120035492。 |
| 『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(服部龍二編、日本図書センター、2002年)。 |
| 1931年12月に重光が作成・提出した中国外交に関する報告書『革命外交』に解説を付し復刻した文献。 |
| 『重光葵・外交意見書集(全3巻)』(武田知己監修、重光葵記念館編、現代史料出版)。 |
| 「第2巻駐華大使・外務大臣時代(上)」(2007年)。 |
| 「第3巻外務大臣時代(下)・その他」(2008年)。 |
評伝
| 豊田穣『孤高の外相重光葵』(講談社、1990年、ISBN4-06-204611-3)。 |
| 渡邉(渡辺)行男『重光葵上海事変から国連加盟まで』(中央公論社〈中公新書〉、1996年)、ISBN4-12-101318-2。 |
| 阿部牧郎『勇断の外相重光葵』(新潮社、1997年)、ISBN4-10-368805-X。 |
| 岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP、2001年6月/PHP文庫、2003年9月)、ISBN4-569-66038-X。 |
| 福冨健一『重光葵連合軍に最も恐れられた男』(講談社、2011年8月)、ISBN4-06-217115-5。 |
研究書・論文
| 武田知己『重光葵と戦後政治』(吉川弘文館、2002年)、ISBN4-642-03743-8。 |
| 牛村圭『「勝者の裁き」に向きあって――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房〈ちくま新書〉、2004年)、ISBN4-480-06162-2。 |
| 浅野豊美『帝国日本の植民地法制――法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年)、ISBN4-815-80585-7。 |
| 小泉憲和『重光葵と昭和の時代――旧制五高で学んだ外交官の足跡』(原書房〈明治百年史叢書〉、2010年)、ISBN4562045594 。 |
| 臼井勝美『中国をめぐる近代日本の外交』(筑摩書房、1983年)。 |
| 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊――内政と外交』(東京大学出版会、1992年)。 |
| 田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究――戦後日ソ関係の起点1945~1956』(有斐閣、1993年)。 |
| 波多野澄雄『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会、1996年)。 |
| 小池聖一『満州事変と対中国政策』(吉川弘文館、2003年)。 |
| 田浦雅徳「重光葵――その世界構想」『彷書月刊(特集・昭和の外交官)』、1988年3月号通巻第31号。 |
| 御厨貴「昭和20年代における『第二保守党』の軌跡――『芦田日記』『重光日記』にみる芦田・重光・三木」、近代日本研究会編『年報・近代日本研究(9)戦時経済』(山川出版社、1987年)。 |
その他
| 小林よしのり『いわゆるA級戦犯――ゴー宣SPECIAL』(幻冬舎、2006年、ISBN4-344-01191-0)。 |
外部リンク
| 重光研究を行っている武田知己・大東文化大学准教授による、重光関係資料の紹介(2004年8月23日)。 |
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1931年
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に重光が作成・提出した中国外交に関する報告... |
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1978年
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解題加瀬俊一)、本巻のみ刊 |
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