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つながりの強いひと
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久米邦武
幕末の佐賀藩士で、近代日本の歴史学における先駆者。長男は洋画家の久米桂一郎。 |
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島津久光
江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。... |
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河田羆
日本の地理学者。明治政府の地誌編纂事業に終始尽力した唯一の人物であるが、彼に関する伝記はほぼ皆無に等しく、今日においては殆ど知られていない。佐藤一... |
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吉川半七
1857(安政4)年創業。現存する出版社の中で 最も長い歴史を誇ります。 1857年、創業者の吉川半七は奉公していた玉養堂から独立し、 書物の仲買業を始めます。... |
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萩野由之
日本の歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。研究領域は幅広く、一つに、古代・近世の法制史の研究で、『日本制度通』(小中村義象と共著)... |
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児島高徳
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、備前国児島郡出身の武将。軍記物語の『太平記』に登場する。通称は、三郎、備後三郎で、備後守とも呼ばれるこ... |
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加藤弘之
日本の政治学者、教育家、官僚。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は文学博士(1888年)、法学博士(1905年)。幼名は土代士(とよし)、のち弘蔵(こうぞう)... |
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川田甕江
幕末・明治期の漢学者。本名は剛(たけし)であるが、これは師である山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。号は毅卿(きけい)。 |
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幸田露伴
日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会... |
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林喜右衛門
13世 林 喜右衛門(はやし きえもん) 能楽師 観世流シテ方 昭和16年1月17日生 京都市出身 立命館大学文学部卒業 父 12世林喜右衛門 および 25世観世宗家 観... |
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阪谷朗廬
複写用ネガフィルム(6巻)あり 検索手段 『阪谷朗廬関係文書目録』(憲政資料目録第16)国立国会図書館編刊、1990 「阪谷朗廬関係文書目録」 (PDF 754KB) ... |
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三島中洲
漢学者、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者で... |
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三浦安
日本の幕末の紀州藩士で、明治時代の政治家である。 |
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岩崎弥之助
日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国(現在の高知県安芸市)に生まれた。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟に当... |
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小中村清矩
国学者・日本史学者。姓は紀氏。幼名は栄之助・金四郎・金右衛門・将曹と称した。号は陽春廬(やすむろ)。国文学者池辺義象はその養子(のち池辺に復する)。 |
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安井息軒
安井息軒(やすいそっけん、寛政11年1月1日(1799年2月5日)-明治9年(1876年)9月23日)は江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。日向国宮崎郡清武... |
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大久保利通
日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑... |
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伊地知正治
薩摩藩士、政治家。伯爵。諱は季靖。通称竜右衛門、号は一柳。 |
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新井白石
江戸時代中期に活躍した旗本・政治家・学者である。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に渡る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、... |
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プロフィール
重野安繹(しげのやすつぐ、文政10年10月6日(1827年11月24日)-明治43年(1910年)12月6日)は江戸末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士。通称は厚之丞。字は子徳、号は成斎、曙戒軒鞭。
生涯
| 薩摩国鹿児島郡坂元村生まれ。 |
| 元治元年(1864年)に藩校・造士館の講師となり、薩摩藩国父・島津久光の命により『皇朝世鑑』を著す。 |
| また、昌平黌の生徒にもなり、塩谷宕陰、安井息軒などの教えを受ける。 |
| この頃、同僚の金の使い込みにより、遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。 |
| 岩下方平らとともに薩英戦争の戦後処理を担当する。 |
| 明治4年(1871年)に上京し、明治8年(1875年)以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。 |
| 明治11年(1879年)、帝国学士院会員。 |
| 明治14年(1881年)、『大日本編年史』編纂に参加した。 |
| 清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。 |
| しかしこのような主張は川田剛ら国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させ、のちの久米邦武筆禍事件の原因の一つとなった。 |
| 明治21年(1888年)、帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任、その翌年には「史学会」初代会長に就任。 |
| この間、明治12年(1879年)の東京学士会院創設とともに会員となり、漢文訓読を廃し音読による中国語教育の水準向上を主張した。 |
| また同年来日した清国の洋務派知識人の王韜との交遊を契機に、翌年結成された日本最初の本格的アジア主義団体・興亜会に参加した。 |
| 明治22年(1889年)近代実証史学の立場から『赤穂義士実話』を著す。 |
| それまであった赤穂浪士・寺坂信行逃亡説の証拠を論破し、逆に彼が討入に参加した証となる史料を提示した。 |
| それ以来、寺坂逃亡説は口にする者が減ったとされる。 |
| 明治23年(1890年)、星野恒・久米邦武と共に『国史眼』を執筆。 |
| 同年には貴族院勅撰議員となった。 |
| しかし明治25年(1892年)の久米邦武筆禍事件の影響で重野は翌年に帝大教授を辞職、修史事業も中止された。 |
| 明治43年(1910年)、83歳で没。 |
| 墓所は東京都台東区の谷中霊園。 |
| 養女の尚は大久保利通の長男・利和に嫁ぐ。 |
| 著書に、『成斎文初集』『成斎文二集』『成斎先生遺稿』があり、『重野博士史学論文集』全3巻補巻1冊も刊行されている。 |
| また、書状等が坂口筑母によって『重野成斎宛諸家書状』『稿本・重野成斎伝』としてまとめられ、国立国会図書館に所蔵されている。 |
著書
| 赤穂義士実話西村天囚筆記大成館1889。 |
| 稿本国史眼巻之1-7久米邦武・星野恒共編大成館1890。 |
| 教育勅語衍義小林喜右衛門1892。 |
| 帝国史談冨山房1896。 |
| 支那疆域沿革図河田羆共著冨山房1896。 |
| 成斎文集冨山房1898。 |
| 大日本維新史善隣訳書館1899。 |
| 万国史綱目勧学会1902。 |
| 国史総覧稿静嘉堂文庫1906。 |
| 薩藩史談集小牧昌業共編求信堂1912。 |
| 成斎先生遺稿15巻松雲堂書店1926。 |
| 重野博士史学論文集上中下巻雄山閣1938-39。 |
関連文献
| 西村天囚「成斎先生行状資料」 『重野博士史学論文集』上 雄山閣、1938年。 |
| 大久保利謙編 『重野博士史学論文集』補巻 名著普及会、1989年。 |
| 関幸彦『ミカドの国の歴史学』新人物往来社、1994年ISBN4404021011。 |
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1827年
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重野 安繹(しげの やすつぐ、文政10年10月6... |
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1864年
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藩校・造士館の講師となり、薩摩藩国父・島津... |
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