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つながりの強いひと
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山内一豊
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏の当主。父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原... |
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家老
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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大原富枝
大原富枝(おおはらとみえ、1912年9月28日-2000年1月27日)は日本の小説家。 |
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吉田東洋
吉田東洋(よしだとうよう、文化13年(1816年)-文久2年4月8日(1862年5月6日))は日本の武士・土佐藩士。父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。... |
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物部
四国放送 の女性 アナウンサー 。血液型はA型。 目次 1 人物 2 担当番組 2.1 TV 2.2 ラジオ 3 過去に担当した番組 3.1 TV 3.2 ラジオ 4 外... |
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山崎闇斎
江戸前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家である。名は嘉、字は敬義、通称嘉右衛門。闇斎は号、霊社号は垂加霊社(すいか・しでます)。 |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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山内忠義
土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。 |
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熊沢蕃山
熊沢蕃山(くまざわばんざん、元和5年(1619年)-元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説... |
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長宗我部元親
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐国の戦国大名。長宗我部氏第19代当主・長宗我部国親の長男で、第20代当主。母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光... |
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後主
後主(こうしゅ)は南朝陳の末代皇帝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。第4代皇帝・宣帝の長男。生母は柳皇后、異母弟に始興王・陳叔陵ら多数の弟... |
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紀貫之
平安時代前期の歌人。『古今和歌集』の選者のひとり。また三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。 |
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岩崎弥太郎
日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏(のち寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛... |
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浅見絅斎
日本の江戸時代の儒学者・思想家。名は重次郎。諱は安正。筆名として望楠楼。 |
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高知龍馬
志国高知龍馬ふるさと博キャラバン隊 プロフィール ブログ なう ピグの部屋 アメンバーになる メッセージを送る プレゼントを贈る プロフィ... |
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今井正
日本の昭和期の映画監督である。社会派映画を主に手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。 |
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貝原益軒
貝原益軒(かいばらえきけん、1630年12月17日(寛永7年11月14日)-1714年10月5日(正徳4年8月27日))は江戸時代の本草学者、儒学者。 |
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岩下志麻
日本の女優。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)銀座出身。本名は篠田志麻(しのだしま)。松竹の看板女優として活躍した。グランパパプロダクション所... |
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中岡慎太郎
日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など... |
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見性院
文化財紹介 見性院の墓 指定の区分 県指定 旧跡 指定名称 けんしょういんのはか 見性院の墓 員数 1基 指定年月日 昭和36年9月1日 所在地... |
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プロフィール
- 野中兼山とは
- 来歴
- 改革
- 晩年
- エピソード
- 土木事業
- 家族
- 参考文献
- 小説
- 映画
- 関連項目
- 関連サイト
野中兼山(のなか・けんざん)元和元年(1615年)-寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の武士。土佐藩家老。諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、 後主計、また伯耆と改め、最後にまた伝右衛門に復した、幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。南学の儒者。政治家。また灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励等、活動は多岐にわたる。
来歴
| 元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。 |
| 祖父野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父良明は5000石を領していた。 |
| 藩主一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊死去後に約束が反故にされたために浪人となっていた。 |
| 兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死去後、兼山は母とともに土佐に帰った。 |
| 13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。 |
| 15歳で元服し、良継と名乗った。 |
改革
| 寛永13年(1636年)養父の直継が病死し、野中家を継いで奉行になった。 |
| 藩主忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。 |
| まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。 |
| また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。 |
| 築港も推し進め藩内製品の諸国での販売を広める。 |
| また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。 |
| 藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。 |
| また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。 |
| これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。 |
晩年
| 一方で過酷な年貢の取り立て、華美贅沢の禁止などで領民に不満は貯まっていき、藩から逃亡する領民も出てくる状態へと進んでいく。 |
| また、郷士の取り立てなどは上士の反発を貯めていく。 |
| 明暦2年(1656年)藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。 |
| 寛文3年(1663年)兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工等が家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。 |
| 野中兼山は失脚し、宿毛に幽閉される。 |
| その年に兼山は亡くなる。 |
| 報復は過酷で男系が絶えるまで、一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後まで待たなければならなかった。 |
エピソード
| 垂加神道の山崎闇斎の先輩であり、放逐された闇斉を保護した。 |
| 母の死に際し、儒葬(儒教による葬儀)を行って切支丹の嫌疑を受けた。 |
| 兼山の血統は絶えたが、民衆は密かに小祠を建てて神と崇めいた。 |
| 後に幕府の許可を得て、「春野明神」と公称し、明治初年の神仏分離によって「春野神社」となった。 |
| 「念仏講」という組織を作り、積立金による丁重な葬儀を行わせた。 |
| 四国は中世からハンセン氏病患者等の巡礼地であり、それ等の遺体は粗略に扱われていたが、兼山はこれをも厚く葬らせた。 |
| 天然痘患者の置棄(おきす)ても禁じ、儒教の精神により火葬を廃し、「棺郭の制」を定めて「厚板契締(あついたちぎりじめ)」の丁寧な棺箱に納めて土葬にさせた。 |
| 「春兎通ったあとが百貫目」とは、ある人夫が仕事場を兎が一匹走り抜けたが仲間には黙っていて、休み時間にその話をしたところ仲間は仕事をやめて捕まえたのにと残念がった。 |
| その話を聞いた兼山がそのことを仲間にいえば大騒ぎになり仕事も遅れたことだろうと感心をし、その人夫に褒美として山石百貫目の使役料を与えたことによるものである。 |
土木事業
| 兼山の功績は土木事業に多く、特に山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術は高く評価されている。 |
| 手結港は、我が国最初の掘込み港湾として慶安3年1650年に着手し明暦元年1655年完工している。 |
| 漂砂による港湾埋設を防ぐため内港まで細長い航路で結び、南側に長い突堤を設けた。 |
| 当時の規模は、南北60間、東西27間、干潮時一丈。 |
| 山田堰は、湾曲斜め堰として有名であったが昭和48年に上流に新たな堰ができ用済みとなり昭和57年に一部を除き撤去された。 |
| 工事は寛永16年1639年に着手し25年後の寛文4年1664年に完成している。 |
| 堰は、全長180間(324m)、幅6間(10.6m)、高さ5尺(1.5m)とあり築造には松材42800本、大石1100坪を用いたと言われている。 |
| 土木事業の功績を伝えるため、手結内港に平成9年6月地元有志により兼山の頌徳碑が建てられている。 |
家族
| 実高祖父:野中道永(播磨国出身、のち美濃国大野郡三輪村伊尾に移住す)。 |
| 実高祖母:美濃斎藤氏。 |
| 実曾祖父:野中伯仙(1513年(永正10年)-1585年9月7日(天正13年8月14日))。 |
| 実曾祖母:衣斐氏(1530年(享禄3年)-1596年10月12日(慶長元年8月21日))。 |
| 実祖父:野中良平(権之進)(1549年(天文18年)-1579年(天正7年5月))。 |
| 実祖母:山内一豊の妹(俗名 合)。 |
| 実父:野中良明(勘解由)(1573年(天正元年)-1618年(元和4年7月))。 |
| 実母:秋田氏(俗名 萬)、(1587年(天正15年)-1651年5月23日(慶安4年4月4日))法名直信院。 |
| 養父:野中直継(玄蕃)(1587年(天正15年)-1636年12月15日(寛永13年11月18日))。 |
| 養母:安東可氏の女(1593年(文禄2年)-1669年6月19日(寛文9年5月21日))法名玄材院。 |
| 本人:野中良継(兼山)。 |
| 正室:野中直継の二女(1620年(元和6年)-1699年8月4日(元禄12年7月9日))法名栄順院。 |
| 長男:野中彝継(清七)(1649年(慶安2年)-1679年7月20日(延宝7年6月13日))。 |
| 二男:野中明継(欽六)(1651年(慶安4年)-1683年10月21日(天和3年9月2日))。 |
| 三男:野中顧一郎。 |
| 四男:野中畏三郎。 |
| 五男:野中繼業(希四郎)(1658年(万治元年)-1698年5月25日(元禄11年4月16日))。 |
| 六男:野中行繼(貞四郎)(1663年(寛文3年)-1703年8月10日(元禄16年6月28日))。 |
| 二女:高木四郎左衛門室(俗名米)(1647年(正保4年)-1667年(寛文7年5月))。 |
| 三女:寛(1658年(万治元年)-1729年(享保14年11月))。 |
| 四女:婉(1661年(寛文元年)-1726年2月1日(享保10年12月30日))。 |
| 五女:将(1662年(寛文2年)-1721年8月19日(享保6年7月27日))。 |
参考文献
| 『野中兼山』松沢卓郎著、大日本雄弁会講談社、1941年、(巻末に『事業一覧表』・『系図』・『南学系統図』・『関係年代記(年譜)』あり)。 |
| 『野中兼山良継―統制経済の先覚者その思想と行実』吉田喜市郎著、1943年。 |
| 『野中兼山』横川末吉著、 人物叢書:吉川弘文館、1962年。 |
| 『野中兼山関係文書』高知県文教協会、1965年。 |
| 『野中兼山と其の時代』平尾道雄著、高知県文教協会、1970年。 |
| 『野中兼山』小川俊夫著、高知新聞社、2001年。 |
| 『野中兼山頌徳碑建立記念誌』、1997年。 |
小説
| 大原富枝 『婉という女』(講談社、初版1960年)-兼山四女「婉」の物語。 |
| 『婉という女・正妻』 講談社文芸文庫で新版、ISBN4061984012。 |
| 田岡典夫 『小説野中兼山』 (平凡社、1975年)。 |
映画
| 『婉という女』(ほるぷ映画1971年5月、監督今井正)。 |
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1615年
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播州姫路に生まれる |
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1639年
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着手し25年後の寛文4年1664年に完成している |
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