| 中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)時代は1937年夏と1938年春の甲子園大会で主戦投手として優勝。 |
| 1937年夏の決勝は川上哲治の熊本工業学校に投げ勝つ。 |
| 1938年春は、ノーヒットノーラン1試合(対海草中学)を含む4試合をすべて完封という当時の甲子園大会記録を作る(翌年の夏の大会で、野口がノーヒットに抑えた海草中学の嶋清一が5試合連続で更新)。 |
| 中京商から旧制法政大学に進むが中退し1939年、東京セネタースに入団。 |
| 1年目に33勝をあげると、翌1940年も33勝、さらに防御率0.93で最優秀防御率のタイトルを獲得。 |
| 1942年5月24日の巨人戦ではあわやノーヒットノーランの快投を演じた。 |
| 川上哲治に安打を打たれ大記録はならなかったが、その腹いせに当の川上とやけ酒を飲み、二日酔い状態でその日の登板を迎えた。 |
| 流石に試合終了後は精根尽きはて、宿舎で夕食のみそ汁を飲んだだけで寝てしまったという。 |
| 翌日の5月24日、対名古屋軍戦(後楽園球場)では当時世界最長の延長28回を344球で先発完投(名古屋軍の先発投手・西沢道夫も共に完投)。 |
| 同年66試合に登板し40勝、投球回数は527回1/3に上った。 |
| シーズン40勝はヴィクトル・スタルヒン・稲尾和久(ともに42勝)に次ぐ記録で、戦後の一時期スタルヒンの記録が40勝とされていたときには日本記録保持者でもあった。 |
| この年のシーズン19完封は翌年藤本英雄がタイ記録を作ったものの、現在もプロ野球タイ記録。 |
| 翌1943年25勝をあげて応召。 |
| 戦後1946年に阪急に復帰。 |
| 1947年には56試合に登板し24勝とタフさは変わらぬように見えたが、応召によって筋力は確実に低下しており、以後徐々に打者としての出場が増加していったが、1946年に当時日本記録の31試合連続安打を記録した。 |
| 投手として実働12年で登板517試合、通算237勝。 |
| 特に戦前・戦中は5年間で平均登板58試合、平均勝数31勝、平均投球回数は419回に及び、その無類のタフネスぶりから「鉄腕」と称された。 |
| 1989年、野球殿堂入り。 |
| 一方、上記の通り連続試合安打記録を樹立するなど打者としても一定の成績を残し、通算830安打を記録。 |
| 規定投球回数と規定打席の両方を満たしたシーズンが6回あり、そのうち1940年と1946年は両方でベスト10入りしている。 |
| 野口は4兄弟の次男であったが、この4兄弟は全員がプロ入りしている。 |
| 長男・明は東京セネタース(二郎より先に入団)→阪急→中日、三男・昇は阪神(その後戦没)、四男・渉は近畿日本に入団している。 |
| なお、プロ通算237勝は甲子園大会で優勝経験のある投手としては最多勝記録である。 |
| 200勝以上では他に平松政次(1965年春、通算201勝)がいるが、奇遇なことに200勝以上の投手の中でこの2人だけがプロでの(現役としての)優勝経験がない(両方での優勝経験のある投手の最多勝は、2010年終了時点では通算178勝の真田重蔵)。 |
| また、大正生まれのため、200勝投手ではあるが名球会への入会資格対象外となっている。 |
| 引退後は毎日・阪急のコーチ、近鉄二軍監督などを歴任した。 |
| 西本幸雄と親しく、これらの球団でも西本が監督のときにコーチなどを勤めることが多かった。 |
| 野口が逝去したとき西本は「野球の経歴は彼の方がよっぽど輝かしいが、偉ぶることもなく献身的に支えてくれた」と、その謙虚な人柄を偲んでいる。 |
| 1989年に野球殿堂入り。 |
| テレビ朝日の『ニュースステーション』のスポーツコーナーで野口の野球殿堂入りを伝えた際、当日の番組ゲストだった黒柳徹子が「あら、野口五郎さんと一字違いね。 |
| 」と発したことがある(ちなみに、歌手・俳優の野口五郎の芸名の由来は長野・富山両県境に位置する山「野口五郎岳」であり、野口二郎とは無関係)。 |
| 晩年には表だった活動は減っていたが、稀にシーズン前の順位予想などで紙面などにコメントを寄せることもあった。 |
| 2007年5月21日午前9時2分、肺炎のため兵庫県宝塚市の病院で死去。 |