| 野澤が2,600億円にも上る違法な巨額の簿外債務を知らされたのは、社長に就任した後のことであった。 |
| 前社長・三木淳夫と前会長・行平次雄の二人は、自らが傷口を決定的に広げた問題の尻拭いを野澤らに押し付けて、自らはさっさと遁走してしまったのである。 |
| しかし、野澤ら新経営陣はこの時点で廃業という道は考えておらず、事業を整理縮小してでも会社の存続に全力をあげることだけを考えていた |
| 莫大な簿外債務の存在を知らされた野澤らは週明け月曜日(簿外債務の存在を知らされたのは8月16日の土曜日)ただちにプロジェクトチームを発足させた。 |
| 外資との提携や、規模縮小などで会社の存続を図ったが、この問題はそもそも野澤が知らされた時点でもはや手に負える様なものではない致命傷であった。 |
| 株価の下落は止まらず、銀行の支援も得られず、最後には大蔵省にも見放される形で自主廃業を決定せざるを得なかった。 |
| 野澤が社長に就任してわずか3ヶ月での廃業決断だった。 |
| 1997年11月24日月曜日は振替休日で休業日だったが、午前6時から臨時取締役会が開かれ自主廃業に向けた営業停止を正式に決議。 |
| そして同日午前11時半、東京証券取引所において行われた自主廃業を発表する会見の場で野澤は、「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください。 |
| 優秀な社員がたくさんいます、よろしくお願い申し上げます、私達が悪いんです。 |
| 社員は悪くございません」と男泣きに泣きながら社員をかばったことがテレビで大々的に放送されて注目された。 |
| 大小を問わず日本の企業では、自社の不正行為が発覚した際に記者会見などで虚偽の報告を繰り返すなどして醜態を晒す経営トップが多い中にあって、その経営トップが率先して行った誠実な謝罪として、今や伝説に残る記者会見にもなった。 |
| また、三洋証券、拓銀をはじめとする金融機関が立て続けに破綻したこの時代を象徴する映像としても有名な会見である。 |
| 野澤はこのときの涙の意味について、「一つは、オリンピックなどでスポーツ選手が見せる、がんばったけど駄目だったという悔し涙。 |
| 私も社長として、100日間がんばったけど、力が及ばずに、ああなってしまったという悔し涙」、「そして、もう一つの意味は、山一證券に在籍した7700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、さらに彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。 |
| なんとか助けてもらいたいと訴える涙」、「気持ちとしては、後者の方が強かった。 |
| なんとか社員が路頭に迷うことは避けたい。 |
| それには涙で訴えるしかない。 |
| この気持ちが7割から8割を占めた」と述べている |
| 山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。 |
| にも関わらず、山一では社長職に東大や一橋大の出身者が就任していたこともあり、その学閥でない法政大学出身の野澤の男泣きは、野澤だけではなく山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となった。 |
| これが野澤および社員の再就職に際しては大いに貢献し、全社員が応じても余りあるほどの求人を受けたという |
| 簿外債務事件には関係がなく、訴追されることはなかった野澤は自主廃業の業務に追われる傍ら、自ら社員の履歴書を持って求職活動をするなどした。 |
| このような経緯やその人柄もあって当時の社員からは未だに大変な尊敬や信頼を受けており、現在でもしばしば交流を行っているという(一方で「山一破綻の真の元凶」として、被害を受けた者やかつて社員だった者からの怨嗟の声を浴びる事になった三木・行平は、さらに証券取引法違反容疑で逮捕・起訴され有罪判決を受け、その後も世間の目を一切避けたまま失意の最期を迎える末路を辿った)。 |
| 1999年6月の山一證券破産宣告をもって、「最後の山一社長」としての使命を全うした後は、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長、河瀬翔之に要請されて同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任。 |
| 同社が推進するIP電話「ビットアリーナ」の普及に当たる一方、インターネットコンテンツ製作会社のデジタルガレージ日本初の個人ウェブサイト「富ヶ谷」を発祥とする。 |
| インフォシーク(現在は楽天が承継)の最初の日本代理店でもあった)の顧問にも就くなど、一時はIT業界に身を投じていた。 |
| 2004年6月にセンチュリー証券(現・日産センチュリー証券)社長に就任、証券業界に復帰した。 |
| 野澤自身は直接的には関与していないものの過去に社長を務めた企業(山一證券)の不祥事に関する責任を感じてか、本人は証券業界への復帰については消極的であったが、彼の人柄と叩き上げで培われた能力に対する評価は高く、強く請われての復帰となった。 |
| 2009年で社長を退任してから表舞台に出る機会は減ったものの、現在でも日本各地で行われる営業関係の企業向けセミナーの講師に招かれるなどして、細々ながらもその貴重な経験と磨き上げられた能力を次代のために活かす活動を続けている。 |