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日野茂
長野県松本市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球指導者、プロ野球監督。 |
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プロフィール
- 野茂英雄とは
- 概説
- プロ入り前
- 新日鉄堺時代
- 近鉄時代
- 球団との確執
- 監督との確執
- ロサンゼルス・ドジャース
- ドジャース退団後
- 引退後
- 選手としての特徴
- 社会現象
- タイトル
- 表彰
- 記録
- テレビCM出演
- 関連項目
- 関連サイト
野茂英雄(のもひでお、1968年8月31日-)は、大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手(投手)。
概説
| ON引退以降、衰退期にあった日本のプロ野球を劇的に変え、今日の野球のグローバル化をもたらした最大の功労者。 |
| ロサンゼルス・ドジャースに移籍。 |
| 日本人メジャーリーガーの実質的なパイオニアである。 |
| 奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。 |
| 生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位、また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げた。 |
プロ入り前
| 小・中学時代の野茂は全くの無名選手であったが、この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、後のトルネード投法の原型となる投法で投げていた野茂がプロ入り後に「トルネード投法」で脚光を浴びた後、高校時代の監督は野茂の投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。 |
| 名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格に終わり、高校野球全国大会とは縁の無い公立高校に進む。 |
| 大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)時代には2年生からエース投手となり、7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会で完全試合(2回戦、対大阪府立生野高等学校戦)を達成。 |
| 3年はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。 |
新日鉄堺時代
| 高校卒業時には既に近鉄から誘いがあったが、新日本製鐵堺製鐵所への入団を選ぶなお、入団先は新日本製鐵傘下のチームであったが、野茂の勤務先は、子会社の新日鐵化学だった。 |
| 新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。 |
| 新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、後に野茂にとって最大の武器となるフォークボールを習得。 |
| 2年目はチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出。 |
| のソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。 |
| 名実共にアマNo.1投手となった野茂の進路が注目されたが、野茂はドラフト会議前、どの球団から指名されても入団することを明言する。 |
| その中で行われたドラフト会議では、野茂に対して史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。 |
| 推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)・推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォーム(トルネード投法)を変更しないという条項が付け加えられた。 |
近鉄時代
| 結局この年、新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝いたパ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。 |
| 現在までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。 |
| ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった。 |
| 奪三振に関しての記録はシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、一試合三振奪取率10.99(当時)などの記録を続々に更新し、新人から「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。 |
| 1990年には5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ4試合連続2桁奪三振を19年ぶりに塗り替えた。 |
| にも5試合連続2桁奪三振を記録。 |
| 同時ににかけ、最多勝と最多奪三振のタイトルを4年連続で獲得する。 |
| 新人年から4年連続最多奪三振、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は共に野茂だけである新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった。 |
| 1991年のオールスターゲームは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手としてマウンドに上がり、先頭打者の立浪和義をはじめ奪三振6を記録(1990年代の球宴では最多)する。 |
| 第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打で出場したことがある結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。 |
| この時、野茂はオリックス・ブルーウェーブのヘルメットで打席に立った。 |
| こののち、1998年の「ベースボールマガジン夏季号『背番号&ユニフォーム大特集』(1998年7月1日発行、雑誌コード:07915-7)」39ページにおいて、野茂が近鉄所属でオリックスのヘルメットを被ったことから「オリックス・バファローズ野茂英雄?」という見出しで当時の写真を紹介した。 |
| そして、この13年後(2004年)のプロ野球再編問題によって近鉄とオリックスが合併、本当に「オリックス・バファローズ」が誕生した。 |
球団との確執
| 先発日に自分の車を藤井寺球場駐車場に止めると、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された。 |
| 観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。 |
| フロントは野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、野茂をトレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。 |
| 自由契約にならない限り、他球団でのプレーは出来ないためであるが、野茂がメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となる。 |
監督との確執
| もう1つの理由は、同じ投手出身の監督・鈴木啓示との確執だった。 |
| 野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。 |
| 当時の監督・仰木彬(仰木は内野手出身)はこれを快諾し、調整方法も野茂に任せたため、野茂は仰木を信頼して尊敬するようになった。 |
| これに関して後に野茂は、メジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。 |
| 更に、1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して野茂に干渉した。 |
| 例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。 |
| また野茂は、立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、野茂が「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。 |
| 野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。 |
| 近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買った。 |
| 監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが四球が多すぎる。 |
| (投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。 |
| その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた鈴木の現役時代は、「無四球試合78」の歴代1位記録を持つ程の、屈指の制球力を誇っていた。 |
| しかし、これらの発言から鈴木は野茂の飛躍によって指導者としての評価を著しく下げる結果を招いてしまい、近鉄監督辞任以降の監督・コーチ要請がなくなり、加えてオリックス・バファローズでの監督・コーチの要請もなくなっている。 |
| こうした指導法が元で野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。 |
| 当時のチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。 |
| ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。 |
| 交渉が不調に終わった野茂は近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。 |
| 自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。 |
| 任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった。 |
| なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。 |
ロサンゼルス・ドジャース
| オフに右ひじの遊離軟骨除去手術を受けて迎えたは、4月28日の対ミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャー1号本塁打を記録野茂はこの本塁打を含め、メジャー時代に4本の本塁打を放った。 |
ドジャース退団後
| 5月11日には東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉意思を示すも、入団には至らなかった。 |
| 7月17日、共同通信のインタビューに対して「リタイアすることにした。 |
| プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。 |
| 自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」とコメントして現役引退を表明。 |
| メジャーリーグ生活の大半を過ごしたドジャースを除く29球団との試合で勝ち星を記録していたため、MLB全30球団からの勝利が達成間近での引退となった。 |
引退後
| 帰国後の2008年11月12日から3日間限定で、臨時コーチとしてオリックス・バファローズの秋季キャンプに招かれた。 |
| 主にフォークボールの投げ方を指導し、選手からは好評だった。 |
| 2010年11月6日に行われた中日ドラゴンズ対千葉ロッテマリーンズ(日本シリーズ第6戦・ナゴヤドーム)のテレビ中継(東海テレビ・フジテレビ系)にて、引退後初めて「野球解説者」として出演し、投手出身の面から試合を分析した。 |
| この試合の中継ではソウル五輪でバッテリーを組んだ古田敦也と共演している。 |
| 第6戦は日本シリーズ史上初となる延長15回、2-2の引き分け、史上最長の5時間43分を記録しているが、中継終了の際には古田とともに「お疲れ様でした」と声を掛け合った |
選手としての特徴
| 大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器としたメジャーリーグ某球団スカウト部長による"リアル"スカウティング・レポート!『月刊スラッガー』2002年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-3、30-33頁。 |
| 速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。 |
| 2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。 |
| 通算奪三振率は9.28。 |
| 通算奪三振率が9.00を上回っている(=通算で、1イニング1つ以上の三振を取った)投手(通算投球回数2000イニング以上)は日本では野茂ただ一人である(メジャーを含めてもノーラン・ライアン、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルティネス、サンディー・コーファックス、野茂の5人だけ)。 |
| オレステス・デストラーデは「野茂が日本球界最高の投手」と評しているベースボールマガジン 2011年9月号 P28。 |
社会現象
| 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌「野茂英雄のテーマ・HIDE〜O」(バナナ・ボートの替え歌)をシングルCDで発売。 |
| 当時、「Nomo(野茂)が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。 |
タイトル
| 最多勝:4回(1990年-1993年)。 |
| 最高勝率:1回(1990年)。 |
| 最優秀防御率:1回(1990年)。 |
| 最多奪三振:4回(1990年-1993年)。 |
| 最多奪三振:2回(1995年、2001年)。 |
表彰
| 新人王(1990年)。 |
| MVP:1回(1990年)。 |
| ベストナイン:1回(1990年)。 |
| 沢村賞:1回(1990年)。 |
| 月間MVP:2回(1990年6月、1992年8月)。 |
| 新人王(1995年)。 |
記録
| オールスターゲーム出場:5回(1990年-1994年)。 |
| シーズン奪三振率10.99 プロ野球新記録:1990年、達成当時。 |
| ノーヒットノーラン:2回(1996年、2001年)※両リーグ通じての達成はサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次いで史上4人目。 |
| MLBオールスターゲーム出場:1回(1995年)※先発投手。 |
テレビCM出演
| セガ「セガサターンせがた三四郎シリーズ「プロ野球チームもつくろう!」(写真のみ)」。 |
| 富士通ゼネラル「nocria」(2009年2月27日-2010年12、新日鉄(「スクスクと新日鉄」BGMの歌詞は「ぽーかぽかー」の繰り返し1990年頃?)。 |
関連項目
| 大阪府出身の人物一覧。 |
| 大阪近鉄バファローズの選手一覧。 |
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1968年
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野茂 英雄(のも ひでお)は、大阪府大阪市港... |
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1990年
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5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ... |
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投票数
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