| 戦後は台頭する左翼勢力に対して名取が翼荘団時代の同志を集めて結成した「脈々会」に参加する。 |
| 1951年(昭和26年)の公選第二回となる山梨県知事選においては保革連合の推薦を受けた天野久が当選するが、名取忠彦や金丸は天野を容共分子として敵対し、知事就任後に名取が山梨県総合開発審議会会長として迎えられると金丸も天野に接近し、1953年の第3回参議院議員通常選挙では名取の実兄で天野の推薦を受けた広瀬久忠の参院選出馬に際して選挙活動に従事する。 |
| このことがきっかけとなり、金丸は衆議院議員選挙に担ぎ出すことになる。 |
| その際、広瀬の勧めで、自由民主党のなかでも保守本流とされる佐藤派に入るようにすすめられ、佐藤栄作のもとを訪ねる。 |
| 1回目は「君には資格がない」と追い返されるが、2回目で無事、佐藤派に入る。 |
| 1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に、自由民主党公認で、山梨県全県区から出馬。 |
| トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をする。 |
| (これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。 |
| なお、この選挙活動中、佐藤栄作は、1回だけ、応援に来て、北巨摩・韮崎・長坂・白根・櫛形・鰍沢・市川大門・身延にて、応援の選挙運動をした。 |
| また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。 |
| 5月22日の投開票で、69,354票を得て、トップ当選を果たす。 |
| 選挙後、妻・玲子を狭心症で亡くす。 |
| 同期当選には、竹下登・安倍晋太郎がおり、彼らと親交を深めた(特に、竹下とは、自分の長男・康信と竹下の長女・一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。 |
| 1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、清瀬一郎衆議院議長(当時)を担いで、議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。 |
| なお、この際、撮影された写真が、米国のライフ誌に掲載され、後の米国との交渉の際、役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。 |
| 佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。 |
| 外交でも保利にならい親台湾派として知られていた。 |
| 1972年1月は、保利の推薦から、自民党国会対策委員長の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は保利の大抜擢であった)。 |
| だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。 |
| これは、金丸が田中角栄を大変評価していたことに由来する。 |
| なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。 |
| 田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「建設大臣をやる」と言っていたが、第1次田中角榮内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったものの、第2次田中角榮内閣で初入閣を果たす。 |
| その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。 |
| しかし立花隆の明らかにした田中金脈問題で田中は首相を辞任に追い込まれる。 |
| 続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任。 |
| また「三木おろし」の気風が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。 |
| 1976年12月、衆議院議院運営委員長に就任。 |
| その後、福田内閣改造内閣では、防衛庁長官に就任。 |
| 長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。 |
| また、当時の栗栖弘臣統幕議長の問題提起発言が、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。 |
| 後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。 |
| シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している『風成の人―宇都宮徳馬の歳月』坂本龍彦、岩波書店、p168。 |
| 一方で外交・防衛政策では「日、韓、台湾は運命共同体だ。 |
| 」と極東における資本主義連帯構想について発言したため、中華人民共和国の猛反発を浴びたこともある。 |
| 長官在任中の1978年、在日米軍に対する「思いやり予算」を考案し実施する。 |
| 1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱える。 |
| これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。 |
| 七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する。 |
| これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化し、一方、竹下との仲は近づいていった。 |