| 1876年8月黄海道海州に産まれる。 |
| 彼の先祖は朝鮮時代中期の朝鮮国の首相金自点である。 |
| 1896年鴟河浦義挙。 |
| 食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し鴟河浦義挙に関する取調べ調書『土田譲亮撃殺の件取調べ調書』、日帝・日本人への懲罰として閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮金九は後に土田を日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身(貿易商・大久保機一が雇用)の商人であった。 |
| を殺害した。 |
| 殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。 |
| 後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。 |
| ;アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500より。 |
| (以下は抜粋)長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。 |
| 雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。 |
| ;自叙伝では次のように記している。 |
| 倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。 |
| 二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。 |
| わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…(『白凡逸志』1947年、日本語版1973年、平凡社、79ページ)。 |
| 1899年黄海道各地に学校設立運動などを行う。 |
| 1919年3月三・一独立運動が失敗に終わる。 |
| 1919年4月上海に亡命し大韓民国臨時政府の設立に参加、第3、4期臨時政府で内務大臣國務領を務める。 |
| なお、第1、2期臨時政府大統領は李承晩だった。 |
| 1921年ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示する。 |
| 1922年11月に韩国人の共产主义者金立在上海の街で、金九は、送信された吴冕稙、卢钟均等に狙撃杀害。 |
| 1922年10月上海で呂運亨,李裕弼,孫貞道などと一緒に韓国労労兵会を組織する。 |
| 1931年10月韓人愛国党を組織する。 |
| 1932年韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロ事件を引き起こす。 |
| 1940年重慶に脱出し、大韓民国臨時政府主席に就任、韓国光復軍を組織して蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を行う。 |
| 1941年12月9日 |
| 1945年11月帰国。 |
| 1945年12月信託統治反対運動を主導する。 |
| 1945年12月31日信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚される。 |
| 同じ12月31日、前日の韓民党の党首宋鎮禹暗殺の容疑で軍司令官に再召喚される。 |
| 1947年12月韓民党の党首張德秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。 |
| 1948年3月8日南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送する |
| 1948年3月12日金奎植、金昌淑、趙素昂とともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表 |
| 1949年6月権力闘争の中で、韓国陸軍砲兵少尉(当時)安斗煕(アン・ドゥヒ)によって狙撃・殺害される。 |
| 1949年7月国民葬。 |
| 1941年12月に日本に対して宣戦布告し、主として武装闘争・本国工作活動によって独立を目指した。 |
| 金九は、アメリカ軍政下にある南半部だけでの単独選挙実施に反対し、あくまで南北統一を進めるべきという立場から活動した。 |
| この活動は北朝鮮当局からも歓迎されず、反共姿勢を優先する李承晩らとの確執を深めた。 |
| 1949年6月に安斗煕に暗殺された。 |