| 土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる(正式には6歳のとき)。 |
| 養母の須美は当時16歳。 |
| 1900年(明治33年)養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居。 |
| 1902年(明治35年)4月、金子保和の名で銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する。 |
| 1906年(明治39年)養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居する。 |
| 4月、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学。 |
| 銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼志願式を受ける。 |
| 浮世絵師の小林清親に日本画を習う。 |
| 1907年(明治40年)6月、牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する。 |
| 11月、友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻される。 |
| この放浪中の不摂生により体調を崩し、翌年3月まで床に臥せる。 |
| 1908年(明治41年)4月、暁星中学校に入学。 |
| 初年度は成績優秀だった。 |
| 漢文学に関心を寄せる。 |
| 1909年(明治42年)夏休みに徒歩で房総半島を横断旅行する。 |
| 老荘思想や江戸文学に惹かれ、中学の校風に反発し、成績が悪くなる。 |
| 1910年(明治43年/15歳)200日近く学校を休んだため留年となる。 |
| 現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。 |
| 1912年(明治45年/大正元年)同人誌を発行し、級友に回覧する。 |
| 1914年(大正3年)4月、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドやアルティバーシェフに影響を受ける。 |
| 1915年(大正4年)2月、早稲田大学を中退。 |
| 4月に東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学するが8月には退学する。 |
| 翌9月、慶應義塾大学文学部予科に入学。 |
| すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。 |
| 肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学。 |
| 丙種で徴兵検査に合格。 |
| 1916年(大正5年)6月、慶應義塾大学を中退。 |
| 保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。 |
| ボードレール、北原白秋、三木露風などの詩を読みふける。 |
| 7月、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。 |
| 10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。 |
| 1917年(大正6年)牛込区赤城元町に転居。 |
| 岐阜、関西、福江島などへ「目的のない」旅をする。 |
| 中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。 |
| 1918年(大正7年)ウォルト・ホイットマン、エドワード・カーペンターに影響を受ける。 |
| 鉱山の仕事に着手するが失敗する。 |
| 川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。 |
| 12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ。 |
| 1919年(大正8年)1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行。 |
| 同月末、イギリスのリバプールに到着する。 |
| その後、ロンドン、ベルギー、ブリュッセルを訪ね、ブリュッセルでは同行人と別れ一人で郊外に下宿。 |
| 親日家であり、日本の工芸品のコレクターであったイヴァン・ルパージュの厚遇を得る。 |
| 西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送る。 |
| 1920年(大正9年)ブェルハーレンの詩に強い影響を受ける。 |
| 5月、ブリュッセルを離れてパリへ。 |
| 12月、ロンドンで帰国の船に乗る。 |
| 1921年(大正10年)1月、2年余のヨーロッパ旅行から帰国。 |
| 1922年(大正11年)詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる。 |
| 同人に大山広光、佐藤八郎、平野威馬雄ら。 |
| 3月、ベルギーで書きためた詩の推敲に着手(後に『こがね蟲』の題名をつける)。 |
| 1923年(大正12年)7月、詩集『こがね蟲』出版記念会を開く。 |
| 出席者に西条八十、吉田一穂、石川淳、室生犀星、福士幸次郎ら。 |
| 9月、関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる。 |
| 1924年(大正13年)1月、東京に戻る。 |
| 7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。 |
| 1925年(大正14年)3月、長男・乾が誕生する。 |
| 3月、『ブェルハレン詩集』訳(新潮社)。 |
| 8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス・ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行。 |
| 1926年(大正15年/昭和元年)3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。 |
| 1927年(昭和2年)国木田虎雄と上海に行き3ヵ月ほど滞在。 |
| 1928年(昭和3年)小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。 |
| 1929年(昭和4年)上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。 |
| のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行。 |
| 1930年(昭和5年)1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。 |
| 1931年(昭和6年)パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。 |
| 1932年(昭和7年)4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。 |
| 1933年(昭和8年)山之口貘との交友がはじまる。 |
| 1935年(昭和10年)9月、『文藝』に「鮫」を発表。 |
| 1937年(昭和12年)12月、三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出における認識を深くする。 |
| 1940年(昭和15年)10月、『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行。 |
| 1941年(昭和16年)4月、アンリ・フォコニエ『馬来』を訳(昭和書房)。 |
| 1943年(昭和18年)12月、『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行。 |
| 1948年(昭和23年)詩人志望の大川内令子と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。 |
| 4月に詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、9月には詩集『蛾』(北斗書院)を刊行。 |
| 5月に詩集『女たちのエレジー』(創元社)、12月には詩集『鬼の児の唄』(十字屋書店)を刊行。 |
| 1950年(昭和25年)6月、『かえれ湖』(文林社)を刊行。 |
| 1951年(昭和26年)4月に『金子光晴詩集』(創元社)、6月には詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行。 |
| 1952年(昭和27年)5月に詩集『悪の華』(宝文社)、12月には詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行。 |
| 1953年(昭和28年)11月、『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する。 |
| 1954年(昭和29年)6月、『現代詩の鑑賞』(河出書房)を刊行。 |
| 1955年(昭和30年)7月、三千代とともに札幌医大文芸部主催の会で講演する。 |
| 1956年(昭和31年)5月、詩集『水勢』(東京創元社)を刊行。 |
| 1957年(昭和32年)8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行。 |
| 1959年(昭和34年)10月に『日本人について』(春秋社)、12月には『日本の芸術について』(春秋社)を刊行。 |
| 1962年(昭和37年)7月、『屁のような歌』(思潮社)を刊行。 |
| 5月に詩集『IL』(勁草書房)、9月には『絶望の精神史』(光文社)を刊行。 |
| 1967年(昭和42年)2月に『日本人の悲劇』(富士書院)、4月に詩集『若葉のうた』(勁草書房)、6月に『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、7月に『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行。 |
| 1968年(昭和43年)7月に評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、10月に詩集『愛情69』(筑摩書房)、12月には『作詩法入門』(久保書店)を刊行。 |
| 1969年(昭和44年)5月、軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院する。 |
| 1971年(昭和46年)4月、詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、5月、『どくろ杯』(中央公論社)、6月、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、9月、『風流尸解記』(青娥書房)、『金子光晴全集』第5巻(最終巻)を刊行。 |
| 1974年(昭和49年)4月、『人よ、寛かなれ』(青娥書房)、『金子光晴自選詩画集』(五月書房)。 |
| 7月に『回想の詩人たち』(冬樹社)、8月『金子光晴下駄ばき対談』(現代書館)、詩集『塵芥』(いんなあとりっぷ社)、『私の詩論』(冬樹社)、9月、『鳥は巣に・六道』(角川書店)。 |