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プロフィール
- 釜本邦茂とは
- 人物
- 学生時代
- ヤンマーディーゼル
- 日本代表
- 世界選抜
- 指導者として
- 政治家として
- エピソード
- 関連サイト
釜本邦茂(かまもとくにしげ、1944年4月15日-)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者、元参議院議員、実業家。現日本サッカー協会顧問。京都府京都市右京区出身。現役時代のポジションはFW。
人物
| 日本サッカー史上最高と言われた不世出のストライカー六川亨『サッカー戦術ルネッサンス』アスペクト、2009年、ISBN9784757216617、P182-184。 |
| 1968年メキシコオリンピックでは7得点を挙げ、得点王に輝くと共に、日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。 |
| 右足から繰り出される強力なシュートが最大の武器。 |
| 特に右45度からのシュートは正確無比 |
| また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しく |
| 左足が3割で、頭が2割」と語っている。 |
| 即ち、あらゆる形からゴールを奪う事が出来る万能型フォワードであった。 |
| 右足のシュートは若い頃、プレースタイルに惚れ込んでいた往年のポルトガルの名ストライカーエウゼビオのフィルム映像を幾度も見て研究、分析。 |
| 映像からシュートに至るまでの一連の動作が自身の動きより1つ少ない事に気づき、シュートフォームを体得する。 |
| 他にもエウゼビオがゴール後のパフォーマンスで走りながら大股で跳躍して、握った拳を腰から胸に突き上げる動作をしているが、現役当時の釜本もゴール後にエウゼビオを同じゴールパフォーマンスを行っているのが確認出来る。 |
| 対戦相手は釜本の突破と右足からの強烈なシュートを警戒し、それを阻止する事に神経を集中させる。 |
| そこで左足のシュートが威力を発揮した。 |
| 1974年の日本リーグ通算100得点目は左足のトゥキック |
| また当初は得点能力には秀でたものの、ディフェンスを背負った状態でボールをキープし、そこから反転してシュートへ持ち込む一連の動作に不安が残っていた。 |
| この弱点は日本代表コーチのクラマーや、西ドイツ留学当時の恩師、ユップ・デアヴァルといった優れた指導者の下で改善し。 |
| 日本代表では杉山隆一三菱重工業サッカー部などに在籍。 |
| 後にヤマハ発動機サッカー部監督を務めた-->との名コンビで知られた。 |
| 東京オリンピック当時は「20万ドルの足を持つ男」の異名で呼ばれた杉山の方が有名な存在であったが、後に釜本がストライカーとしての才能を開花させると、杉山はアシスト役に徹する様になった。 |
| そしてメキシコ五輪では釜本の記録した7得点のうち4得点は杉山のアシストからの得点であった。 |
| 引退するきっかけは自宅において椅子から立ち上がる際テーブルに体を痛打、この時「もう(日常の簡単な動作さえ出来ないのなら)選手は仕舞いやな」と決める。 |
| 1985年に引退後、関西テレビのワイドショー番組シュートinサタデーのキャスターを経て、1991年に松下電器(後のガンバ大阪)の監督に就任。 |
| 1995年から2001年まで参議院議員を1期務め、労働政務次官を務めた。 |
| 現在は日本サッカー協会顧問。 |
| 2005年第1回日本サッカー殿堂入り。 |
| 2006年9月より京都文教大学客員教授(文化実践論) |
| また、京都府のゴルフ場「クラウンヒルズ京都ゴルフクラブ」オーナーに就任した。 |
学生時代
| 京都市立太秦小学校でサッカーを始める。 |
| 市立蜂ヶ岡中学校3年の時、主将として京阪神三都市大会に出場、同大会にて優勝を果たし、京阪神地域の指導者の注目を集めるようになった。 |
| 1960年に京都府立山城高等学校に入学しサッカー部へ入部。 |
| 森貞雄監督の下でレギュラーの座を掴むと、10月の熊本国民体育大会にて優勝。 |
| 1961年に京都府サッカー協会会長の藤田静夫(後の日本サッカー協会会長)の計らいにより大学生以上を対象とした講習会に特別参加。 |
| ここで、FIFAコーチ、デットマール・クラマーに会い、薫陶を受ける。 |
| 1962年1月には全国高校サッカー選手権にて準優勝に輝く。 |
| 決勝戦は広島県代表の修道高等学校との対戦となったが、二村昭雄を怪我で欠いた影響もあり2-4で敗れた。 |
| 同年4月には高校選手権で戦った森孝慈らと共に日本ユース代表に選出され、第4回アジアユース大会に出場した。 |
| 1963年に早稲田大学第二商学部入学。 |
| 関東大学リーグで優勝を果たし、11得点で得点王。 |
| この年を含め4年連続得点王。 |
| 日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場。 |
| 1964年1月、日立製作所(現柏レイソル)を破り天皇杯優勝。 |
| 1967年1月、天皇杯で東洋工業(現サンフレッチェ広島)を破り優勝。 |
| (以後、天皇杯での大学勢の優勝はない)。 |
ヤンマーディーゼル
| 早稲田大学を率いて天皇杯制覇、関東リーグ4年連続得点王の実績から多くの企業から誘いを受けた。 |
| 特に三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)からの勧誘は熱心で、大学の同僚の森孝慈が入社を決めた事で三菱入りへ傾いたが、ヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部部長や早大の先輩で関西の実力者、川本泰三の勧めもあり、1967年4月、ヤンマーディーゼルに入社する事になった。 |
| 日本サッカーリーグ、豊田自動織機戦でデビューを飾ると、この試合で初得点を決めた。 |
| 関西の弱小チームであったヤンマーを釜本の強い個性で牽引していった。 |
| また同年5月には日系ブラジル人のネルソン吉村(後に帰化し吉村大志郎と名乗る)が加入。 |
| 吉村の南米出身者らしい柔軟なボールタッチは目を見張るものがあり、釜本も吉村との練習や試合中で、貪欲に学習した。 |
| 会社も釜本や吉村を始めとした選手補強や、施設の整備や選手の待遇改善などの支援を積極的に行い、やがてリーグを代表する強豪へと成長していった。 |
| 1969年1月天皇杯で三菱重工を破り、ヤンマー初優勝。 |
| 決勝ゴールをあげる活躍で初のビッグタイトルをもたらした。 |
| ヤンマーや日本代表での活躍(後述)など順調な成長を見せていた釜本であったが、1970年にウイルス性肝炎を患い選手キャリアを中断、入院生活を余儀なくされた。 |
| 復帰後も度々故障が続くなどコンディションが完全に回復するまで3年間を有したが、前述の吉村を始めとしたブラジル出身者と、それに刺激され徐々に実力を付けた日本人選手の奮闘もあって1971年には日本リーグと、天皇杯の二冠を獲得した。 |
| そして、病気が完治するとGK西片、DF北村、松村、浜頭、水口、MF吉村、小林、阿部、FW今村、釜本、堀井らの、ほぼ不動のメンバーを擁して1974年、1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯制覇に貢献。 |
| 釜本自身も1974年10月20日の日本リーグ、対三菱戦において通算100得点を達成した。 |
| この頃には試合の流れを読んだゲームメイクやチャンスメイクも担当する様になり、また若い頃の様な豪快なプレーだけでなく、相手デイフェンスのマークを一瞬外し、再びゴール前の危険地帯へ飛び込む「消える動き」も身に付けるなど |
| 1978年2月、ヤンマーの選手兼任監督に就任、全盛期を支えた選手達が少しずつチームを去る節目の時期でもあった。 |
| 若手の楚輪博の成長もあって、釜本はゴール前での得点に専念する様になった |
| そして1981年11月1日の対本田技研戦において通算200得点と、201得点を記録。 |
| その後、1982年5月20日対マツダ(現サンフレッチェ広島)戦で右足首アキレス腱断裂。 |
| 同年8月25日の「釜本邦茂引退試合」、ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦は、東京・国立霞ヶ丘陸上競技場に6万人の観衆を集め行なわれた。 |
| ゲスト・プレーヤーに往年のスター選手ペレとヴォルフガング・オフェラートを迎えた試合は、釜本自身が前半15分に得点を決め引退の花道を飾った |
日本代表
| 代表レベルでは、高校2年、3年次に日本ユース代表に選出されアジアユース大会に出場。 |
| 早稲田大学1年次の1963年には日本B代表に選出され、同年秋に開催されたプレ五輪大会に出場した。 |
| 翌1964年に19歳で日本代表に選出されると東南アジア遠征に参加。 |
| 同年2月21日のタイ空軍戦で代表デビューを飾ると、同25日のスランゴール州選抜戦で代表初得点、3月3日のシンガポール戦で国際Aマッチデビューを飾った。 |
| 日本はベスト8でチェコスロバキア五輪代表に敗退したが、FIFAと日本蹴球協会が主催する敗者トーナメント(大阪トーナメント)に参加。 |
| 10月20日の5・6位決定戦、ユーゴスラビア五輪代表で1得点を決めたが、釜本自身は消化不良の大会となった。 |
| 東京オリンピック当時は技術や駆け引きの面で未熟さを見せていたが、2年後の1966年12月、第5回アジア大会ではエース級に成長し、6得点を挙げ大会3位入賞に貢献した。 |
| 1967年6月21日に行われたブラジルのパルメイラスとの親善試合では決勝ゴールを決め、外国プロサッカークラブに対し初勝利を飾った |
| 同年9月から10月に開催されたメキシコオリンピックアジア予選に出場、9月27日のフィリピン戦のダブルハットトリック、同30日の台湾戦のハットトリックを含む11得点を挙げる活躍で、本大会出場に貢献した。 |
| 翌1968年1月にクラマーの勧めもあり、西ドイツの1.FCザールブリュッケンへ短期留学。 |
| 後に西ドイツ代表監督を務めるユップ・デアヴァルから指導を受けると、この事が選手としての重要な転機となった。 |
| 留学後に日本代表へ合流、オリンピックに向け組まれた親善試合では留学の成果を発揮し、同年6月23日のアーセナルFC戦で豪快なダイビングヘッドから得点を挙げるなど、外国の屈強なディフェンス相手に互角に渡り合った。 |
| メキシコ五輪での成功を受け、次の目標は1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会出場へと向けられた。 |
| 1970年3月、日本代表に復帰を果たすが、長年コーチとして代表を指導したクラマーは去り、メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したベテラン選手達は一人また一人と代表を去る中で、リーダーとしての重責を担う様にもなった。 |
| 1972年7月のムルデカ大会で15得点を挙げ得点王に |
| 日本を3位に導いたものの、1973年5月のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会予選、1976年3月のモントリオールオリンピック予選では敗退が続いた。 |
| しかし、1977年3月のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会予選では韓国、イスラエルに競り負け予選敗退。 |
世界選抜
| メキシコ五輪終了後直後の1968年11月6日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで開催された、ブラジル対世界選抜の試合に招集。 |
| 世界選抜にはヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ベルント・シュスターらが参加し、世界選抜の監督は、西ドイツ留学時代の恩師、デアヴァルであった。 |
指導者として
| 1991年、当時、プロリーグへの参加が内定していた松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)の監督に就任。 |
| しかし、エースストライカーの永島昭浩を始めとする古参選手との確執(永島は翌1994年に清水エスパルスへ電撃移籍)や、期待された礒貝洋光・松波正信を育てきれない、松波と同期で自身の山城の後輩石塚啓次獲得に失敗など成績は低迷。 |
| 最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)となっている(同ステージ7月31日博多の森陸上競技場での初代チャンピオンヴェルディ川崎との公式戦で0-2、相手GK菊池新吉に完封負、追加点となる2失点目は翌日結婚式を控えた三浦知良が記録)。 |
政治家として
| 1995年7月23日、第17回参議院議員通常選挙で自由民主党から比例区で出馬し当選。 |
エピソード
| 釜本の父は若い頃から剣道に励み、京都で警察官を務めていたが、1938年から1942年まで兵役に就き、ノモンハン事件に参加。 |
| 早稲田大学の三年先輩に松本育夫・野村尊敬・桑田隆幸、同期に森孝慈、大野毅らがいる。 |
| 1967年11月19日に和歌山で開催された日本サッカーリーグ、日立本社(現柏レイソル)戦において2人のゴールキーパーを負傷退場させる記録を残した。 |
| 試合後にジョージ小林が長沼健監督の部屋を尋ね「お客さんがたくさん入った、選手お金要求する」と配当をしつこく要求、「今の体制じゃ、そうはいかない」と長沼が断っても聞き入れないので、釜本を呼んで追い返した大住良之、後藤健生『日本サッカーは本当に強くなったのか』中央公論新社、2000年。 |
| 現役引退後はトーク番組「シュートinサタデー」(関西テレビ制作フジテレビ系)司会やCM「丸大焼肉」「じゅうじゅう亭」(丸大食品)などテレビでも活躍した。 |
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1944年
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釜本 邦茂(かまもと くにしげ)は、日本の元... |
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1960年
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京都府立山城高等学校に入学しサッカー部へ入部 |
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