62456
62841
787966
%E9%87%A7%E9%9B%B2%E6%B3%89
%E9%87%A7%E9%9B%B2%E6%B3%89
%E9%87%A7%E9%9B%B2%E6%B3%89
%E9%87%A7%E9%9B%B2%E6%B3%89
%E9%87%A7%E9%9B%B2%E6%B3%89
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
渡辺崋山
江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮... |
|
|
中山高陽
江戸時代中期の日本の南画家、書家、漢詩人。土佐国堺町(現高知県高知市堺町)の豪商「阿波屋」の次男として生まれる。元の姓は中山田氏で、香宗我部氏の子... |
|
|
亀田鵬斎
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(... |
|
|
谷文晁
江戸時代後期の日本の画家。江戸南画の大成者であり、その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。名は正安。はじめ号は... |
|
|
良寛
良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕-天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵... |
|
|
頼山陽
友達
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
|
|
彭城百川
江戸時代中期の南画家。服部南郭、祇園南海、柳沢淇園とともに日本南画の祖であり、日本で初めて本格的な中国南宗画様式による山水画を描いた画家とされる。... |
|
|
渡辺玄対
渡辺玄対(わたなべげんたい、寛延2年(1749年)–文政5年4月3日(1822年))は江戸時代中期の日本の画家。名は瑛、字を廷輝、号は玄対のほかに松堂・林麓草堂... |
|
|
鈴木芙蓉
江戸時代中期後期の日本の文人画家。江戸南画様式の確立に影響を与えた。名は雍、字は文煕、通称新兵衛。号は芙蓉、老蓮。古文献などでは高芙蓉と区別するた... |
|
|
田能村竹田
江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。幼名は磯吉、後に玄乗、生蔵。名は孝憲。字は君... |
|
|
木村蒹葭堂
江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家... |
|
|
立原杏所
江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏... |
|
|
浦上春琴
友達
江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国(現岡山県)に生まれる。浦上秋琴は実弟。諱は選、字を伯挙・十千、号は春... |
|
|
池大雅
日本の江戸時代の文人画家、書家。本来の苗字は池野(いけの)だが、中国風に池と名乗った。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな... |
|
|
大窪詩仏
江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。
常陸国久慈郡袋田村(現茨城県久慈郡大子町)に生まれる。名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳... |
|
|
加藤文麗
加藤文麗(かとうぶんれい、宝永3年(1706年)-天明2年3月5日(1782年4月17日))は江戸時代中期の日本の画家である。谷文晁の師として知られる。名は泰都、... |
|
|
千々石ミゲル
安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧使節の正使。ミゲルは洗礼名。肥前国領主千々石直員(ちぢわのうかず)の子。有馬晴信の従兄弟で、大... |
|
|
菅茶山
友達
江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。 |
|
|
浦上玉堂
友達
江戸時代の文人画家。名は孝弼(たかすけ)。字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」... |
|
|
狩野探幽
狩野探幽(かのうたんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日)-延宝2年10月7日(1674年11月4日))は江戸時代の狩野派を代表する絵師である。狩野孝信の子で狩... |
|
|
プロフィール
- 釧雲泉とは
- 略歴
- 人物
- 作風・評価
- 代表作
- 参考文献
釧雲泉(くしろうんぜん、宝暦9年(1759年)-文化8年11月16日(1811年12月31日))は、江戸時代後期の南画家である。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就(じゅ)、字を仲孚(ちゅうふ)、通称文平、別号に、魯堂(ろどう)、岱岳(たいがく)、六石(りくせき)、磊落居士(らいらいこじ)などがある。
略歴
| 雲泉の30歳以前の経歴はその墓碑銘亀田鵬斎撰「雲泉山人墓銘」にわずかに伝わるのみである。 |
| これによると宝暦9年(1759年)に島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県千々石町)付近に生まれ、幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという。 |
| 10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。 |
| その後、理由は明らかでなく期間も不明であるが、父に同行し長崎に遊学し、清国人について学問と南画の画法を学び華音にも通じた。 |
| このときの師は明らかではない。 |
| 以来、董源や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。 |
| また来舶した清人画家張秋谷にも影響された。 |
| 父が没すると、一人万里の旅に向い山陽道から紀伊、淡路、四国の諸国を巡り歩いた。 |
| この間に讃岐で長町竹石と知りあい交友を深めた。 |
| その後、江戸に下向し居を構える『蒹葭堂日記』。 |
| 寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねている。 |
| 『蒹葭堂日記』の解釈からこのときが初対面であることが明らかであり、従って天明8年に雲泉が木村蒹葭堂を訪れ、谷文晁に南画の指南した事実(高梨光司著『蒹葭堂小伝』)はなかったとしている。 |
| (中村、2000年、505ページ)その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中に赴き森岡邸に身を寄せる。 |
| 同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流した「山舘読書図」(年紀:寛政3年5月20日)に賀宴に集まった文人たちの寄せ書きが残されている。 |
| その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。 |
| 備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。 |
| 寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流。 |
| 同年6月には再び蒹葭堂を訪ねている『蒹葭堂日記』。 |
| 寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。 |
| 寛政10年(1798年)、蒹葭堂を訪ねる『蒹葭堂日記』。 |
| 寛政12年(1800年)、41歳のとき備州を去り大坂に移り住んだ。 |
| 享和元年(1801年)、蒹葭堂を訪ねる『蒹葭堂日記』。 |
| その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住海保青陵『東贐』。 |
| 儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わる。 |
| この頃に結婚したと推測される。 |
| 文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴く。 |
| 高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至る。 |
| その途次各地で画の依頼を受けて制作をしている。 |
| 詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした森銑三「釧雲泉雑記」。 |
| その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽くす。 |
| この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。 |
| 文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。 |
| 文化8年(1811年)5月には、亀田鵬斎とともに中条の岡田家、吉田の酒井家に逗留し画を描いている。 |
| 同年、越後出雲崎に遊び、中江杜徴と邂逅。 |
| 杜徴から「画は敬服するが、もう少し書を研究するように」と諭された。 |
| 浄邦寺住職菅泰峨は雲泉を大いに歓迎して画の弟子となるが、同年11月に蕎麦屋「けんどん屋」にて酒を飲むうち急死する。 |
| 泰峨により浄邦寺に埋葬される。 |
| 海野蠖斎の依頼を受けて亀田鵬斎が碑銘し「雲泉山人墓銘」として刻されている。 |
人物
| 雲泉は旅と孤独を愛し、超俗の画人として生涯を送った。 |
| 几帳面である反面、はなはだ気難しく、俗物を嫌い気に入らない人物とは口も利かず、筆や杯を投げて帰らせることもたびたびあった。 |
| また冥利のためには描かなかったという墓銘 原漢文。 |
| 常に自分は画家ではなく文人であると称していたという小野達「雲泉山人歌」『招月亭詩鈔』所収。 |
| 酒を好み、煎茶を嗜んだ。 |
| 釣りが好きで旅の途中いつも釣り竿を持ち歩いていた。 |
| 異常なほど潔癖症で料理や洗濯は自ら行わないと気が済まなかったと伝えられる。 |
作風・評価
| 雲泉は中国南宗画を志向し続けた。 |
| 山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。 |
| 晩年の作は妙な重苦しさがあると評される。 |
| 中国の画家董源や倪雲林、張秋谷らの影響がみられ、気韻生動、筆墨淡雅で、超俗の趣を持つ。 |
| 「居民に雲仙あるを説けども、邑に雲泉あるを知らず」と雲泉を敬慕した田能村竹田はその著『屠赤瑣瑣録』で嘆いている。 |
| 金井烏洲『無声詩話』や森島長志『槃礴脞話』の「雲泉画譚」に雲泉の作が高く評価されている。 |
| 慶応2年(1866年)刊の『南宗書画品価録』には池大雅に次ぐ一点3両の高額で売買されていたことが記されている。 |
| 瀬木、22ページ。 |
代表作
| 「緑樹濃陰図」(1789年)雲泉の作で最も初期の作品。 |
| 江戸で画かれた作。 |
| 大村西崖編『雲泉遺墨集』所収 仿古書院、大正12年。 |
| 「流渓山水図」(1792年)。 |
| 「山中閑居図」(1793年)。 |
| 「碧梧清暑図」(1793年)菅茶山賛。 |
| 「高士観漠図」(1793年)。 |
| 「風竹図」。 |
| 「秋江高閣図」(1799年)(款記)。 |
| 「層巒接江図」(1802年)。 |
| 「渓山清夏図」(1806年)。 |
| 「山水図六曲屏風」(1808年)新潟県指定文化財。 |
| 「青山飛泉図」(1809年)亀田鵬斎賛。 |
| 「秋江泛舟図」。 |
| 「秋江独釣図」 東京国立博物館蔵。 |
参考文献
| 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、ISBN4831508985。 |
| 飯島勇編「文人画家の群像」『日本の美術』<No.8文人画>、昭和41年、117ページ。 |
| 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社、2000年、ISBN4103155213。 |
| 瀬木慎一『江戸・明治・大正・昭和の美術番付集成』里文出版、平成12年。 |
| 武田光一「近世文人の遊歴と交流 ー釧雲泉の場合ー」図録『新潟・文人去来 ー江戸時代の絵画をたのしむー』所載 新潟市歴史博物館、2007年。 |
|
1759年
|
島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県... |
|
1791年
|
32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
釧雲泉さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|