| 実家は7人からなる大家族であり、少年時代は父親の工場へ遊び場の様に出入りしていたが、バイオリンを弾くことはなかった。 |
| 商業学校に入ってからは夏休みになると工場で働く様に父に命じられ、バイオリン製作について一通りのことを覚える。 |
| 卒業の前年頃、たまたま蓄音機を手に入れると、名バイオリニストミッシャ・エルマンが演奏するシューベルトの「アヴェ・マリア」のレコードを買い求め、初めてレコードを聴く。 |
| それまで兄弟喧嘩をしたときなどに、バイオリンで叩き合うほど身近であった為、バイオリンを玩具のようなものだと思っていた鎮一であったが、このレコードによって初めてプロのバイオリンの音に触れ、バイオリンがその様な美しい音を出すことに非常に驚き、大いに感動する。 |
| この時から、音楽・芸術に関心を持つ様になる。 |
| その後、エルマンのレコードを買い、ハイドンのメヌエットなど弾けそうな曲から譜面も無しに練習し、我流ながらもバイオリンを弾く様になる。 |
| 1916年(大正5年)、市立名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業。 |
| 商業学校を卒業後、父親の方針からバイオリン工場の事務所に勤め、意欲的に働くも2年ほどして体調を崩し、興津へ転地療養する。 |
| その後3ヶ月ほどで名古屋へ帰るが、療養先で親しくなった柳田一郎の勧めで徳川義親侯爵の北千島探検(1919年)へ同行することになる。 |
| この頃にはバイオリンと鎮一は切っても切れない縁となっており、旅にはバイオリンを持参した。 |
| 旅に使われた船のサロンにはピアノがあり、旅に同行していたピアニストの幸田延子(幸田露伴の妹)の伴奏で鎮一はバイオリンの演奏を披露したりした。 |
| その旅の終わり頃、徳川、幸田から正式な音楽の勉強を薦められる。 |
| その後、徳川から父・政吉への説得もあり、鎮一は音楽の道に進むこととなった。 |
| 1920年(大正9年)に上京、徳川義親侯爵家に寄宿し、ヴァイオリンを安藤幸(幸田延の妹)に師事。 |
| 1921年(大正10年)、徳川侯爵の計らいもあり、ドイツへ留学することとなる。 |
| 父親の許可を得て、徳川侯爵らの世界一周旅行に同行。 |
| ドイツに着いてから最初の3ヶ月は師事すべく先生を選ぶ為、演奏家の音楽会を聴き回る。 |
| 中々つきたいと思う先生が見つからなかったが、クリングラー・カルテットの演奏会に感動、クリングラーに弟子志願の手紙を出す。 |
| かねてから弟子を取らないクリングラーであったが承諾され、ベルリン高等音楽学校の教授カール・クリングラーに師事する。 |
| ベルリン滞在中、鎮一の世話役であった医学者のハンス・ミハエルス教授がアメリカのホプキンス大学の学部長に招聘されることとなり、代わりの後見人役にアルベルト・アインシュタイン博士をミハエルスから紹介される。 |
| 以後、アインシュタイン博士の世話になり、博士の知友のグループから大きな影響を受けた。 |
| 歩いて来た道(音楽之友社刊)/愛に生きる(講談社現代新書)アルベルト・アインシュタインの援助で、数年間にわたって奨学金を受けることが出来た。 |
| 1928年(昭和3年)、ヴァルトラウト夫人(旧姓プランゲ)と結婚し帰国。 |
| 兄弟と『鈴木カルテット』を結成して演奏活動を開始するとともに、国立音楽学校(現国立音楽大学)に出講。 |
| 1931年(昭和6年)には帝国音楽学校のヴァイオリン教授として、アレクサンドル・モギレフスキーとともに採用される。 |
| 1937年(昭和12年)ごろ、江藤俊哉、豊田耕兒、小林武史、小林健次らの主要な門人を相次いで引き受ける。 |
| これらの門人は当時まだみな少年であったが、その才能が傑出していると考えられた為、鈴木に英才教育を施すように委ねられたとされる。 |
| 鈴木鎮一にとって児童の教育は初めての経験であり、指導法をめぐって懊悩する日々の中から指導戦略と教育哲学を発展させ始め、独自の新たな実際的教訓を、日本文化に特有な古くからの東洋思想と融合させるに至った。 |
| 鈴木は、天才という一般的イメージを否定して、子供の才能は大人や環境に与えられて作り出されるものであり、神童は生まれつき神童という特権的存在であるわけがなく、神童になるべく教育されて作り出されると主張した。 |
| 第二次世界大戦中は、名古屋大空襲によって実家のヴァイオリン工房が消失し、兄弟の一人を喪う。 |
| 鈴木家は無一文となったため、鎮一は1943年(昭和18年)に東京での教職を去り、寡婦となったばかりの姉妹のいる長野県木曽福島に戻って、姉妹の家族を経済的に支えるべく、戦闘機の部品組立工場に務めた。 |
| 鈴木はやがて疎開先の孤児たちにヴァイオリンを教え始める。 |
| このときの教え子の一人は後に鈴木の養子となった。 |
| 戦後、1946年(昭和21年)に松本市に松本音楽院を開設。 |
| あわせて全国幼児教育同志会を発足させるが、2年後の1948年(昭和23年)に才能教育研究会と改称され、さらに1950年(昭和25年)に文部省(現文部科学省)より「社団法人才能教育研究会」として認可される。 |
| 1955年(昭和30年)、東京都体育館において、当時の日本皇太子をはじめとする日本の皇族の出席のもと、第1回全国大会「グランドコンサート」開催。 |
| 2000名の生徒によるヴァイオリンの大合奏の風景は、後に映画『ミュージック・オブ・ハート』においても再現されることとなる。 |
| 1964年(昭和39年)、代表的な10名の児童を連れ、アメリカ合衆国に最初の演奏旅行を行い、アメリカの音楽教育界に衝撃を与える。 |
| これ以降、1994年(平成6年)まで30回の訪米が繰り返される。 |
| 1970年(昭和45年)、勲三等瑞宝章を受章。 |
| 1975年(昭和50年)、第1回世界大会をハワイ州において開催。 |
| 1978年(昭和53年)、日米親善コンサートのため100名の児童を率いて渡米、アメリカ側の100名の児童も加わってケネディ・センターで行われたコンサートは、カーター大統領夫妻が招待された。 |
| 1979年(昭和54年)に松本市の名誉市民となる。 |
| 1986年(昭和61年)、サントリーホールにて米寿記念コンサート。 |
| 1991年(平成3年)、イギリスのサンデー・タイムス紙の特集「20世紀をつくった1000人」の中に選ばれる。 |
| 1994年(平成6年)、サントリーホールにて95歳祝祭コンサート。 |
| 1996年(平成8年)、鈴木鎮一記念館が開館。 |
| 1997年(平成9年)、専修学校国際スズキ・メソード音楽院開校。 |
| 1998年(平成10年)に松本の自宅で99歳で永眠し、世界中の門下生から弔辞が相次いだ。 |